正月も5日となると正月気分はだいぶ薄らいでいる。来年度の講義要項(10日締切)をそろそろ書かねばならないな、と頭の片隅で考えながら、まだパラパラと届く年賀状の返信(寒中見舞)を炬燵で書いている。
渋谷の歯科医師宅で起こった惨劇は正月気分の消失に拍車をかけるものだった。次男の犯行の引き金は、長女(妹)の「私には夢があるけれど、あなたには夢がない」という言葉であった、と新聞は伝えている。次男にあったのは親の期待である。期待は外在的な動因であり、夢は内在的な動因である。その意味では次男と長女は対照的であったが、長女の夢は親からの期待への反発をバネにして形成されていたフシがある。そして、その長女もまた、三浪中の次男同様、時間がどんどん過ぎていくことに強い焦燥感を覚えていたようだ。「夢をかなえるには、年齢的に時間がないと思っていたようで、いつもがむしゃらだった」と彼女が所属していた芸能事務所の社長が証言している。「私には夢があるけれど、あなたには夢がない」という言葉は、彼女の焦燥が言わしめたものだろう。それにしてもこれはいきなり発せられるにはあまりにも唐突な物言いである。おそらく、この言葉の前に、この言葉を誘発するような物言いが、次男から長女に向かって発せられたのでないだろうか(この点は次男の今後の語りを待たねばわからない)。歯科医師の父、父の期待を実現できた長男、期待を実現できずに鬱屈した日々を送っていた次男、父の期待に反発して独自の夢を形成し(しかしその夢をなかなか実現できずに)生きていた長女。家族システム論的に解釈すれば、構造的ストレスがそのシステムの内部の弱者の問題行動を通じて表出され、システムそのものを破壊したのである。いまから四半世紀前に川崎で起こった「金属バット事件」(二浪中の次男が就寝中の両親を金属バットで殺害)と同じタイプの事件である。同じタイプの事件が再生産されるのは社会の構造に変化がないからである。1980年11月29日も2006年12月30日も同じ後期近代(ポストモダン)に属している。そこでは子供は夢を語り、夢に向かって生きることを強いられ、親は子供に社会的上昇(すでに上昇を果たした親は自身の階層の継承)を期待し、しかしその期待をあからさまには子供に押しつけることがないように気をつかい、できれば子供が親の期待を自身の夢へと変換させてくれることを願い、一方、子供はその無言の期待を敏感に感じつつも、あくまでも主体的に生きているように振る舞わねばならない。
渋谷の歯科医師宅で起こった惨劇は正月気分の消失に拍車をかけるものだった。次男の犯行の引き金は、長女(妹)の「私には夢があるけれど、あなたには夢がない」という言葉であった、と新聞は伝えている。次男にあったのは親の期待である。期待は外在的な動因であり、夢は内在的な動因である。その意味では次男と長女は対照的であったが、長女の夢は親からの期待への反発をバネにして形成されていたフシがある。そして、その長女もまた、三浪中の次男同様、時間がどんどん過ぎていくことに強い焦燥感を覚えていたようだ。「夢をかなえるには、年齢的に時間がないと思っていたようで、いつもがむしゃらだった」と彼女が所属していた芸能事務所の社長が証言している。「私には夢があるけれど、あなたには夢がない」という言葉は、彼女の焦燥が言わしめたものだろう。それにしてもこれはいきなり発せられるにはあまりにも唐突な物言いである。おそらく、この言葉の前に、この言葉を誘発するような物言いが、次男から長女に向かって発せられたのでないだろうか(この点は次男の今後の語りを待たねばわからない)。歯科医師の父、父の期待を実現できた長男、期待を実現できずに鬱屈した日々を送っていた次男、父の期待に反発して独自の夢を形成し(しかしその夢をなかなか実現できずに)生きていた長女。家族システム論的に解釈すれば、構造的ストレスがそのシステムの内部の弱者の問題行動を通じて表出され、システムそのものを破壊したのである。いまから四半世紀前に川崎で起こった「金属バット事件」(二浪中の次男が就寝中の両親を金属バットで殺害)と同じタイプの事件である。同じタイプの事件が再生産されるのは社会の構造に変化がないからである。1980年11月29日も2006年12月30日も同じ後期近代(ポストモダン)に属している。そこでは子供は夢を語り、夢に向かって生きることを強いられ、親は子供に社会的上昇(すでに上昇を果たした親は自身の階層の継承)を期待し、しかしその期待をあからさまには子供に押しつけることがないように気をつかい、できれば子供が親の期待を自身の夢へと変換させてくれることを願い、一方、子供はその無言の期待を敏感に感じつつも、あくまでも主体的に生きているように振る舞わねばならない。