フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

1月26日(金) 曇り

2007-01-27 02:12:02 | Weblog
  午後から大学へ。4限の大学院の演習も本日で最終回。5限の時間は研究室で卒論を読む。
  「日本社会学会ニュース」の最新号に井上俊さんの「会長就任にあたって」という文章が載っている。その中で井上さんは、学会の法人化や国際化(これは既存の方針)といった課題にふれた後で、こんなことを書いていた。

  「近年、大学教育における社会学の地盤沈下がいわれ、社会学関係の大学院に進学しようとする学生の減少、さらには大学当局による社会学の教員ポストの削減などもささやかれています。これらの問題は、単に学生の気質の変化だけでなく、いわゆる「全入時代」を迎えて必死に生き残りを図る大学の事情とも深く関係しています。どうも社会学は、身も蓋もない「必死の姿勢」といったものとは相性がよくないようです。しかし、そんな高見の見物みたいなことをいっているだけでは、社会学のほうこそ生き残れないかもしれません。このような問題に学会としてどう対応していくべきなのか、これも大きな課題の一つです。」

  私はこれを読んで意外な気がした。それは2つの理由による。
  第一に、「社会学の地盤沈下」という認識。早稲田大学の第一文学部の1年生の間では、社会学専修の人気は高い。そのため他の大学でも社会学は人気があるのだろうと勝手に思い込んでいたが、どうもそうではないらしいと知って、驚いた。これは、文学部の中のさまざまな専修(専攻)の1つとして社会学がある場合と、社会学が単独で一つの学部を形成している場合の違いであろうか。前者の場合、哲学や文学や歴史学に比べると、社会学は就職に有利な感覚がある。しかし、後者の場合、理科系の学部はもちろん、法学部や商学部や教育学部などと比べて、社会学部はやっていることが曖昧模糊としているので就職には不利という感覚が生じるのではないか。
  第二に、「社会学の地盤沈下」に学会として「対策」を講じなければならないという認識。たとえば「社会調査士」という資格の発明は、社会学の生き残りのための「対策」の1つである。しかし、そうした一種の「実学志向」に私は違和感を覚える。社会学はその研究対象である社会と一定の距離を置かなければならない。「高見の見物」はそれを揶揄した言葉かと思うが、社会に取り込まれ、呑み込まれてしまっては、社会学が本来もっているはずの批判精神は失われてしまうのではないか。もしそうした批判精神が企業に就職して生きていく上で学生たちにとって必要ないもの、むしろないほうがいいもの、そう大学の経営者や学生たちが考えるようになってきているのだとしたら、「必死の姿勢」で店舗の改装を行うよりも、いさぎよく店仕舞いをするか、少数の顧客を大切にして地道な商いを続けた方がよい。
  いま大学で社会学を講じている教員は、学生の頃、社会学という学問と出会って、心ときめくものを感じたはずである。自分が感じたそのときめきを目の前にいる学生たちに伝えること、それこそが教員の仕事の中心にあるはずのものである。仮にそのときめきが時代遅れのものになってしまっているとしても、自分自身が心ときめかないものを人に教えることはできない。時代遅れであることは恥ずかしいことではない。恥ずべきは時代におもねることである。心ときめかないものにときめいているフリをすることである。