フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

1月20日(土) 小雨

2007-01-21 12:56:16 | Weblog
  寒い一日だった。息子はセンター入試を受けるために朝から出かけていった。私は午後から大学へ。夕方、4年前の文芸専修の卒業生で私の講義(社会学研究)を履修していたYさんが研究室にやってくる。卒業生が研究室にやってくる理由は主として3つである。
  第一は、何かの依頼。たとえば、大学院受験の推薦状を書いてほしい、結婚式でスピーチをしてほしい、うちの出版社から本を出してほしい、韓流ブームについての意見を聞かせてほしい(取材)、といったことである。色よい返事をする確率は80%(5件に4件)くらいか。かなりの高率ではなかろうか。一種のアフターサービスと心得ている。
  第二は、人生相談。たとえば、A氏とB氏、この2人の男性のどちらを選んだらよいでしょうか・・・って私は細木数子か。これは卒業生に限らない。「ライフコース」や「ライフストーリー」をキーワードにした講義をやっていると人生相談的な質問を受けることはよくある。そのときの対応はケース・バイ・ケースである。「私にはわからない」(野口英世)と答えるときもあれば、「ズバリ言うわよ」(細木数子)と答えるときもある。アドバイスの内容は概して常識的なものである。本人が思い詰めているときほど、こちらは常識の代理人を演じる必要がある。
  第三は、具体的な依頼や相談があるわけではなく、久しぶりに話がしたくなって、というもの。私にとっては一番気楽に対応できるものである。お茶を飲んで(たいていカフェゴトー)、飯を食べて(たいてい五郎八)、じゃあまたねと言って別れる。ただそれだけのことだ。ただそれだけのことだが、そのことで、今日という一日が人生の中の或る一日としての輪郭を与えられる。
  本日のYさんは第三のケースだったが、特殊なのは、恋人のN君と学生時代からの友人Tさんを連れてきたことである。私とN君、私とTさんは初対面である。さらにN君とTさんも初対面である。すなわちYさんという原子に三つのマッチ棒が刺さっているような人間関係的構造なのである。これはYさんが恋人のN君と友人のYさんを私に紹介したくて、かつN君とYさんを引き合わせたくてと目論んだ結果である。欲張りな人なのである。研究室で30分ほど雑談をしてから(以後、ずっと雑談なのであるが)、Yさんの希望で五郎八(Yさんは「ごろはち」と勘違いしていたが、「いろは」と読む)に繰り出したが、土曜の夜は休みであった。みんなが蕎麦の頭になっていたので、長岡屋に回ってみたが、やはり閉まっていた。寒空の下をこれ以上歩き回るのはやめにして、交差点の角の灯りのついている早稲田軒に飛び込む。餃子、かに玉、酢豚、肉団子、ワンタン、五目炒飯を注文し、みんなで食べる。それからシャノアールでお茶。N君は寡黙な青年で、Tさんも詩人志望の言葉を選んで語るタイプの女性である。饒舌なYさんとは対照的だが、それぞれYさんと2人だけのときは違うのだろう。3人とも20代の半ばで、可能性を現実へと変換することを社会から期待(要請)されながらの日々を送っている。将来に対する自負と危惧とが交錯する日々に違いない。
  9時半ごろ、ケータイに電話が入った。知らない番号だったので、出ないでいたら、留守電にメッセージが入り、聞いてみると教員ロビーの職員の方からで、すぐに対処の必要な用件であった。折り返し電話を入れ、いま大学の近くの喫茶店にいるので、すぐにそちらに行きますからと答え、Yさんたちとはここでお別れとなった。じゃあまたね。(緊急の用件の方は、やっかいなことにはならず、すぐに解決した)。