フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

1月27日(土) 晴れ

2007-01-28 00:56:19 | Weblog
  義父の三回忌法要で横浜に行く。お寺で経をあげてもらってから、墓参り、そして近くの蕎麦屋で食事。妻の親戚の方が娘が妻に似てきたと盛んに言う。珍しいことである。たんに就活用にショートヘアになったから、そう見えるだけじゃないのか。娘=父親似、というのが我が家における不同の等式であったが、娘に聞いたところでは、友人からも「お母さん似だね」と言われることがあり、比率としては7(父親似):3(母親似)くらいだという。ふ~ん。
  天気に恵まれてよかったが、今日の夕刊(読売)によると、全国的な暖冬で、東京都心ではまだ初雪すら観測されておらず、このままいくとこれまでで一番遅かった初雪の記録(1960年の2月10日)を更新するのではないかとみられている。ちょっと待ってくれ、と私は言いたい。ここで注意しなくてはならないのは、「東京都心」とは千代田区大手町の気象庁の敷地内を意味するということだ。確かにそこではまだ初雪は観察されていないのだろう。しかし、1月20日の朝、わが街蒲田(大田区)では初雪(みぞれ混じりだったが)が降った。渋谷区や世田谷区でもそうであったと聞く。だから大手町の気象庁の敷地には降っていなくても、東京にはすでに初雪が降っているのである。面白いことにというか、不思議なことにというか、自分の体験(初雪が降った)と気象庁の見解(初雪はまだ降っていない)がずれている状況で、自分の体験を否定して(あれは初雪ではなかったんだ)、初雪を待ちこがれているような雰囲気が人々の間に生まれている。実物の世界と情報の世界の倒錯である。

  メルロ=ポンティは『知覚の現象学』の中で「あられ」について書いている。

  「たとえば、〈あられ〉という語は、私がいま紙のうえに記したばかりのこの文字のことでもなければ、私がいつかはじめて書物のなかで読んだあのもうひとつの記号のことでもないし、さらにまた、私がこの語を発したときの空気をよぎって行ったあの音のことでもない。そうしたものは語の再生産形態でしかないので、私はたしかに、それらの再生産形態のすべてに語をみとめはするけれども、語がそれらですべて尽くされてしまうというわけではないのだ。…(中略)…語の意味というものは、対象のもつ若干の物的諸特性によってつくられてはいず、それはなによりも、その対象が或る人間的経験のなかでとる局面、たとえば、〔〈あられ〉という語の意味なら〕、空からすっかりできあがって降ってきたこの固く、もろく、水に溶けやすい粒々のまえでの私のおどろきのことなのだ。」

  1月20日の朝、東京のここかしこで人々が空を見上げながら手のひらで受け止めた「あっ、雪だ」という小さな驚きこそ、「東京の初雪」という語の意味である。実物の世界と情報の世界の倒錯とは、「東京都心(大手町)の初雪」という地政学的概念に屈して、その驚きをなかったことにしようとすることである。それはとんでもないことである。古風な言い方をすれば、「あられもない」ことである。