フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

12月26日(金) 晴れ

2008-12-27 03:11:54 | Weblog
  朝、一旦起きて、少々寒気がしたので、二度寝して、10時起床。挽肉のそぼろ、トースト、紅茶の朝食。近所の電気屋さんへ行って、店員さんの話を聞き、電話で妻の承諾を得て、液晶テレビとブルーレイディスクプレーヤーとテレビ置き台を購入。全部で40万円ほどした。そろそろ地上デジタル放送へ移行してもよいころかと。川崎あたりの量販店で購入すればもっと安いのであろうが、テレビを買い換えるときは近所の電気屋さんでと以前から決めていた。安さだけを求めてやってきた来た結果がいまの日本社会の惨状(たとえば、あれこれの商品偽造、シャッターの下りた商店街、使い捨ての非正規雇用労働者、などなど)であり、それへの反省と抵抗の気持ちがある。安全や信頼や地域社会における人と人との繋がり、そういうものの価値を再認識し、大切にすること、それがこれからのわれわれの目指すべき道である。と、ずいぶん大きく出たものであるが、その電気屋さんはパナソニックの系列で、したがって購入したのはテレビで小雪が宣伝しているビエラとディーガである。小雪ファンの私としてはいい気分だ。

         
                     小雪、買ったよ。

  書斎の掃除に取り掛かる。書斎の窓辺に山積みになっていた本を書庫に運び、机上に積まれていた書類の大部分をゴミ箱に捨てる(残った書類はしかるべきクリアーフォルダーに入れ、机上に立てて置く)。とりあえずこれだけで気分がとても軽くなった。

         
                       さあ、仕事だ。

12月25日(木) 晴れ

2008-12-25 23:56:59 | Weblog
  8時、起床。体重を量ったら、減量作戦の進行中であるにもかかわらず、逆に1キロほど増加している。いろいろ行事の多い年末年始の減量の難しさを痛感する。昨日、耳鼻科で帯状疱疹の疑いありとの診断で、激しい運動(ジムでのトレーニング)を自粛せざるをえなくなったのも大きな誤算である。減量はあきらめて現状維持(太らないこと)に目標を変更しよう。挽肉のそろぼ、トースト、紅茶の朝食。
  昼から大学へ。院生のI君と「西北の風」で昼食(ナポリタンと珈琲)をとる。広島出身の彼は27日に帰省するとのこと。戸山キャンパスに戻る途中、穴八幡に寄って、母から頼まれていた一陽来復のお守りを購入。
  2時から現代人間論系の教室会議。大きな議題が1つと、あれこれの小さな議題がいつくか。これで今年の会議納め。終わったのは5時で、窓の外は夜である。でもつい先だって冬至を迎え、これからは日々少しずつ、しかし確実に、昼間が長くなっていくのである。研究室に戻り、テーブルの上を片付ける。次に来るのは正月休み明けで、そのときテーブルの上がスッキリしていたら気分がよいだろう。二つ隣の長谷先生の研究室の明かりがついていたので、「よいお年を」と今年最後の挨拶をする。すると長谷先生がわざわざ廊下に出てこられて、「この間、授業で山田太一さんに来てもらって話をしたんです」と言った。私が倉本聰と山田太一の大ファンであることを知っていて、私を羨ましがらせようという魂胆である。しかたがないので、地団駄踏んで、羨ましがる振りをしてさしあげた。他者の期待に応えるというのは社会的人間の基本的な行動様式である。あゆみ書房で以下の本を購入。

  小谷野敦『里見伝「馬鹿正直」の人生』(中央公論新社)
  岸田秀『「悲しみ」という感情』(新書館)
  メアリー・C・ブリントン『失われた場所を探して ロストジェネレーションの社会学』(NTT出版)

  深夜、TVで小田和正のクリスマスコンサートを観る(いま、フィールドノートを書きながら、観ている)。毎年恒例の番組で、彼の高音の歌声を聞いていると、ああ、今年も終わるのだなぁと思う。

12月24日(水) 晴れ

2008-12-25 02:11:51 | Weblog
  午前、耳鳴りの薬が切れたので近所の耳鼻科に行く。耳鳴りはあまり改善された様子がなく、慣れてきているという面の方が強い。待合室はずいぶん混んでいて、待ち時間に持参した年賀状の添え書きが半分終った。ようやく名前を呼ばれて、診察を受けると、医者が「あれあれ」と言ったので、どうしたのかと思ったら、左の外耳道に帯状疱疹(ヘルペス)が出ているという。「痛くありませんか、眩暈はしませんか」と聞かれ、「いえ、とくに・・・」と答えたが、「とにかく左耳の聴力検査をしましょう」ということになる。内耳まで及んでいれば聴覚に支障が出ているはずだからとのこと。先日と同じ検査を左耳について受けたが、前回は6、7種類のいろいろな波長の音を大小聞かされたと思っていたのだが、今日改めてやってみたら、大小ではなく、大小と微小の三段階であることがわかった。前回は微小が聞き取れなくて大小の二段階だと思っていたのだ。つまり前回よりも聴力はむしろアップというか回復していることが判った。もっとも本当に回復したのか、検査馴れしただけなのかは定かではない。しかし少なくとも前回より悪くなっていないことだけは確かで、炎症は内耳には及んでいないようだ。帯状疱疹なのか単純な外耳炎なのか判断がつきかねるが、とりあえず3日間帯状疱疹用の薬を飲んで様子をみましょうということになる。処方箋をもって薬局に行ったが、これがえらく高い薬でびっくりした。たいてい千円前後ですんでいたのが、今日は五千円をオーバーした。保険に入っていてこれなのだから、非正規雇用で保険に入っていない人はうっかり医者にもかかれまいと先日観た「NHKスペシャル セーフティネット・クライシスⅡ」を思い出す。こうなると職業問題の域を越えてもはや人権問題だ。
  帰宅して昼食(煮込みうどん)をとり、年賀状の添え書きの残り半分を書き上げる。近所のポストに投函しに行き、そのまま散歩に出る。駅ビルの「カフェ・ド・クリエ」で1時間ほど読書をしてから、妻に頼まれたパンを買って帰る。今夜はクリスマスイブ。娘は約束があるとのことなので、母と妻と息子と私の4人の食卓。久しぶりでタカノのケーキをホールで買った。クリスマスのケーキの苺は彩りだけで味はパッとしないことが多いのだが、そこはフルーツのタカノだけのことはある、美味しい苺だった。メリークリスマス。

         

  ツタヤでレンタルしたウィル・スミス主演の『幸せのちから』(2006)のDVDを観た。1981年のサンフランシスコを舞台にした、実話に基づくサクセス・ストーリーである。父子家庭の父親で、医療機器のセールスマンをしていた男が、証券会社の厳しい採用試験に合格して証券マンとして成功する(自分の会社を興す)までを描く。その日のねぐらにも困る父子の姿は現在のワーキングプアに通じるものがあるが、彼が成功を掴み取る舞台が証券会社というのは現在から見ると何とも皮肉である。あの頃、オフィス街を肩で風を切って歩いていた人々は、いま、どうしているのだろう。

12月23日(火) 晴れ

2008-12-24 02:29:27 | Weblog
  9時、起床。ソーセージ、トースト、紅茶の朝食。女塚神社に旧い注連縄とお札を持っていく。お焚き上げをしてもらうためだ。10時頃、家を出る。母と妻と息子と鶯谷の菩提寺に墓参りに行く。現地で妹夫婦と合流。墓参りをすませて鶯谷の駅の近くの路地裏にある「錦華楼」で食事。銘々好きなものを注文する。私は海老そば。母が注文して食べ切れなかったレバニラ炒めとご飯も食べる。これは決して私が食い意地がはっているのではなく、一種の親孝行なのである。減量作戦遂行中だが、いたしかたあるまい。「錦華楼」は安くて美味しい店である。何を注文しても杏仁豆腐がサービスで付いてくる。

         

  食事を終えて、息子は大学へ(部室の大掃除と忘年会)、妻は浅草橋に手芸用品の買出しに。母と私と妹夫婦はアメ横へ。混んではいるが、人出はまだまだこれからであろう。世の中は未曾有(「みぞう」と読みます)の不景気だが、ここには庶民のバイタリティがある。

         

  有隣堂で『百年小説』(ポプラ社)という広辞苑のようなボリューム(1331頁!)の短篇小説集を購入。鴎外から太宰まで51人の作家の51篇の短篇小説が収められている。ボリュームの割に収録作品が少ないのは活字が大きい(しかも総ルビ)だからである。選者は明記されていないが、1作家1作品(短篇)というのは百人一首みたいで編者のセンスが問われるところだ。私がこの本を購入することに決めたのは、活字が大きいということと、志賀直哉の「真鶴」が入っていたことによる。これがもし「城の崎にて」だったらあまりにも凡庸だ。もちろん「城の崎にて」が代表作と呼ぶに相応しい作品であることは間違いがないが、それではあたりまえすぎて面白くない。「真鶴」は私の大好きな作品で、この本の選者(複数いるのかもしれないが)とは馬が合いそうだと思った。定価6600円だから、単純計算すると、一作品あたり130円ということになる。着うた一曲は105円だから、それと大して違わない金額で日本近代文学の佳作を楽しむことができるわけだ。リビングのテーブルの上に置いておいて、食後にお茶を読みながら読むのがいいかもしれない。

         

12月22日(月) 曇り、夕方から小雨

2008-12-23 03:22:06 | Weblog
  昨日とは一転して曇天の寒い一日だった。
  午前、来年度の現代人間論系の時間割のことでいくつか手直しすべき箇所があり、担当教員や事務所に電話やメールで連絡。なかなか楽にしてもらえない。ゼミの申請をしていない学生たちにメールで問い合わせをするが、なかなか返事がない。メールサーバーが容量オーバーで戻ってきてしまうケースもあり、そのときは事務所で教えてもらったケータイの番号に電話をする。先方のケータイにこちらの番号は登録されていないから、たいてい出てもらえない。留守電にメッセージを吹き込み、折り返し電話がかかって来るのを待つが、なしのつぶてだ。弱った。大田区男女平等推進区民会議の報告書はほぼ固まったので、次は区長との面談だ。もちろん区長はご多忙だが、こちらも2月は卒論の口述試験、期末試験の採点、入試などでそれなりに忙しい。相談の上、候補日を2つに絞る。面談時間は30分とのこと。無駄なおしゃべりはできない。M-1グランプリの一組あたりの持ち時間は4分で、たとえばナイツは4分間に37のボケとツッコミを押し込んでいた。あのくらいの密度で話せるよう準備をしておこう。
  午後、散歩に出る。「鈴文」の前を通るとき、暖簾をくぐりたい誘惑に駆られたが、昨日の昼の「Aランチ」を思い浮かべ、我慢した。昼食の基本は麺類だ。郵便局で牧阿佐美バレエ団2月公演「リーズの結婚」のチケット代を振込んでから、「テラス・ドルチェ」で昼食(アラビアータと珈琲)。シナリオ『風のカーデン』を読む。昨日も電車の中で読んでいて、涙が出そうになったが、今日もそうだ。ごく小さな子どもの頃を除いて、私は人前で泣いたことがないのだが、危なかった。家の外で読むべき本ではないかもしれない。残り2章を残して店を出て、ジムに向う。ラス前とオーラスはジムの後にとっておく。筋トレを3セットと、ウォーキング&ランニングを60分。ジムの後、アプリコ前の「カフェドクリエ」でゆずホッとを飲みながら最後の2章を読む。ときどき涙が出そうになるので、目を閉じて、堪える。
  夕食の後、ユーチューブにアップされている『風のカーデン』の最終回をシナリオを手元に置きながら観る。ちょうど交響曲の演奏を楽譜を膝に置いて聴くような感じだ。シナリオを読んでいるとき、「この場面はなかったな」という箇所がいくつかあったので、それを確認する。たとえば、白鳥貞美(中井貴一)の勤務先であった東京の高林医科大学病院の看護部長の内山妙子(伊藤蘭)が、富良野の白鳥医院を訪ねてくる場面。妙子は貞美のかつての愛人で、貞美を看取りたい一心で、東京からやってきたのだ。喫茶店で貞三(緒方拳)が妙子の申し出を断るシーン、その終わりのあたり。シナリオではこうなっている。

  貞三「恥を申しますが、うちは永いことバラバラでした。でも」
  妙子「―」
  貞三「あいつの最期を一緒に闘うことで、家族が初めて結ばれつつあります」
  妙子「ですから、他の方の手伝いは、ありがたいですが、お受けしたくないンです」
  妙子。
    音楽―静かに続いている。
    間。
  妙子「(かすれて)判りました」
  貞三「―」
    間。
  妙子「ご家族みなさんで闘ってらっしゃるンですね」
  貞三「―」
    間。
  妙子「それが一番良いことですねたしかに」
  貞三「―」
    長い間。
  妙子「判りました」
  貞三「―」
  妙子「余計なわがままを申しました」
  貞三「―」
    間。
  妙子「貞美先生によろしくお伝え下さい」
  貞三「―伝えます」
    妙子。
    立ち上がり、伝票をとろうとする。その伝票を貞三がとる。
    妙子。
    一礼して去りかけて急に振り返る。
    妙子、湧きかけた涙を抑え、懸命に笑顔を作ってみせる。
  妙子「自分がご家族のその作業に―、加われないのが、口惜しいです!」
  貞三「―」
    妙子、頭を下げ、入り口へ急ぎ去る。
    手を全くつけていないコーヒー。
    音楽―。

  しかし、TVドラマの方では、最後の妙子の台詞はない。立ち上がって、伝票のやりとりがあって、一礼して、そのまま黙って店を出て行くのだ。これは演出の宮本理恵子(山田太一の娘)の判断だと思うが、よい判断だと思う。妙子の最後の台詞は未練が過ぎる。婦長の仕事を捨てる覚悟で、昔の愛人を看取るためにやってきた妙子なのだが、未練たっぷりなのはわかるが、やはりここは黙って立ち去る方がいい。この台詞は、もし言うとしても貞美に向っていうべきもので、初対面である父親の貞三に向っていうべきものではない。おそらく宮本理恵子もそう考えたのだと思う。なんだか、こんなふうに解説すると、私が女心をわかっているような印象を与えるかもしれないが、全然、そんなことはないのである。女心は難しい。私にわかるのは女心一般ではなく、特定のタイプの(つまり私が好むタイプの)女性の気持ちなのである。
  もう一つ別のシーン。死の床にある貞美が娘のルイ(黒木メイサ)に氷室茜(平原綾香)への言伝をお願いする。

  貞美「ルイ」
  ルイ「(作業)―ハイ」
    間。
  貞美「居間いっぱいに押し花があるだろう?」
  ルイ「あるわ」
  貞美「あれはあれだけかね。もっとあるのかね」
  ルイ「いっぱいあるわ。整理してないのも」
    間。
  貞美「カンパニュラもあるかな」
  ルイ「カンパニュラ?」
  貞美「ああ」
  ルイ「あったわ、たしか。ラクチフローラか、ウェディングベルが」
    間。
  貞美「いつでもいいからそれを額装して、ある人の所に届けてくれないかな」
  ルイ「いいわよ。急ぐの?」
  貞美「いや、急がない。俺がいなくなったあとがいい」
  ルイ「―」
  貞美「そしてついでにその時、俺が死んだことをその人に伝えてくれ」
    間。
  ルイ「その人って、どういう人?」
    間。
  貞美「別に怪しい関係の人じゃない」
  ルイ「―」
  貞美「氷室茜っていう新人歌手だ」
  ルイ「(おどろいて)カンパニュラの恋で今売り出してる!?」
  貞美「ああ」
  ルイ「知ってるの!?」
  貞美「昔彼女が声の出なくなったとき、父さんが治してやったことがある」
  ルイ「―本当!」
  貞美「最近やっと日の目を見たらしいが、一寸前まではカツカツの暮らしをしてた」
  ルイ「―」
  貞美「バーのラウンジで弾き語りをしてて、父さん時々聴きに行ってたンだ」
  ルイ「―」
  貞美「世に出られてよかった」
  ルイ「判った。必ず届けに行く」
    間。
  貞美「やっぱり眩しいな。カーテン閉めてくれ」
    音楽―ゆっくりと盛り上がって消える。

  しかし、TVドラマでは、ルイの「その人って、どういう人」以下の会話はない。これはおそらく(実際に演じれらたが)時間の関係で編集でやむを得ずカットされた部分ではないかと思う。なぜなら、この部分がないと、貞美と茜がどうして知り合ったか視聴者にはわからないからだ。貞美は「別に怪しい関係の人じゃない」と言っているが、これは嘘で、茜は天性のプレーボーイ白鳥貞美の最後の愛人なのである。しかも茜はルイとそれほど年齢が違わない。私の感覚では、若い愛人への言伝を娘に託すというのは考えられないが(私なら友人に頼むだろう)、貞美は痛み止めの麻薬の副作用で冷静な思考ができなくなっているのだと考えるとしよう。ルイには茜が父親にとってどういう女性かわかったはずだ。たぶんルイが札幌のチャペルコンサートに来た茜に、コンサートの前に面会して、父親のことを伝えたのは、茜に対するジェラシーのためである。茜が貞美の死を知らされてショックを受けるのはわかっているから、普通はコンサートが終った後に面会するだろう(私が貞美の友人なら絶対にそうする)。しかし、ルイはコンサートを前にした茜と面会したのである。ここにはジェラシーと、そして復讐の心理が働いている。実際、貞美の死を知らされて、茜は取り乱し、一曲だけ歌ってコンサートは中止になるのであろう。その唯一の曲、「カンパニュラの恋」をBGMにして、札幌から富良野に帰るルイをカメラは追いかける。これはシナリオでは指示されていなかった部分で、もちろん宮本理恵子の演出だ。これも効果的だった。父親の依頼にかこつけて、父親の最後の愛人に辛い仕打ちを与えた、それをした自分に対してルイは自己嫌悪に似たものを感じている、そういう表情だった。ルイと茜、二人が対面する場面は、愛する者を喪った二人の女がその悲しみを共有する場面というふうには私には受け取れなかったのである。悲しみの共有はもっと時間が経過してから起こるもので、あの場面、茜は初めて貞美の死を知ったのである。初対面の貞美の娘と悲しみを共有するなんてことは無理である。一方のルイは貞美の死から3ヶ月近くが経過しているわけで、目の前で動揺している茜を冷静に見つめている。これも悲しみの共有というのとは違う。女性は愛する者を喪った悲しみを独占したいと、少なくとも当初は、思うものではないかと思う。自分はその人のことを誰よりも愛していた。だから喪失の悲しみもまた誰よりも大きいのだと。こんなふうに解説すると、私が女心をわかっているような印象を与えるかもしれないが・・・って、さっきも同じことを書きましたね。以下、省略。黒木メイサ、いいよね~(はるな愛の口調で)。それにしても、白鳥貞美、もてすぎです。くやしいです!(ザブングルの加藤歩の口調で)。
  このカットされた会話について、もう一言いうと、最後の「やっぱり眩しいな。カーテン閉めてくれ」という貞美の台詞は、それよりも前のシーンで、ルイが西日が顔に当たって眩しそうだからカーテンをしめようかと貞美に聞いて、貞美がそのままでいいと答え、そしてこういうのを何ていうか知ってるかとルイに質問し、ルイがわからないと答えると、「夕陽のガンマン」と言ってルイを笑わせるのである。ルイを笑わせるために眩しい西日を我慢していたのである。そのことを視聴者は「やっぱり眩しいな。カーテン閉めてくれ」という台詞から改めて知るのである。だからやはりこのシーンはカットすべきではなかったのだ。