フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

12月21日(日) 晴れ

2008-12-22 02:31:32 | Weblog
  強い南風の吹く暖かな(冬至とは思えない)一日だった。
  昨夜、パソコンで年賀状の下半分(文章)を作成し、150枚ほど印刷した。冒頭の句は「正月や牛の母子の畦あそび」(細川加賀)。上半分(図柄)は妻に任せているのだが、「この句に相応しい図柄にしてほしい」と注文しておく。
  今朝は10時に起床。明太子、味噌汁(卵を落とす)、ご飯の朝食。フィールドノートの更新をすませてから家を出る。早稲田大学混声合唱団のコンサートを聴きに昭和女子大学人見記念講堂へ出かける。団員で、私の演習の学生でもあるKさんからチケットを頂戴したのである。三軒茶屋の駅から昭和女子大学まで歩く途中にあった洋食屋で昼食をとる。Aランチ(とんかつと牡蠣フライのセット)を注文。とんかつは薄っぺらだったが(本来のポークカツレツはこういうものかもしれない)、牡蠣フライと蜆の味噌汁は美味しかった。カウンターだけの店はお客でいっぱいで、メタボ気味の店員が後ろを通るたびに彼のお腹が私の背中にあたるので落ち着かなかった。もっとスリムな人を雇うべきだと思うが、彼はマスターの息子さんなのかもしれない。
         
            

  コンサートは午後3時開演。2部構成で、第一部は混声合唱とピアノのための組曲「雨ニモマケズ」(作詞:宮沢賢治、作曲:千原英喜)。賢治の3つの詩、「告別」「野の師父」「雨ニモマケズ」に曲を付けたものである(「告別」は2曲に分割されているので4曲構成)。有名な作品なのかもしれないが、私は聴くのは初めてだった。朗読で聴くとのはずいぶん趣が違う。とくに「雨ニモマケズ」は元気な曲で、「手のひらを太陽に」みたいな感じだった。賢治の他の詩、たとえば「永訣の朝」や「春と修羅」などもすでに誰かが曲を付けているのだろうか。あれば聴いてみたい気がする。第二部はモーツァルトの「レクイエム」。合唱団に4人のプロの声楽家とオーケストラ(東京バッハ・カンタータ・アンサンブル)が加わり、指揮は八尋和美。歌詞の意味がわからない分、声が純粋に音として、人体という楽器が奏でる音として伝わってくる。もし日本語に翻訳した歌詞であったら、音楽性はかえって落ちてしまうだろう。曲は原語の歌詞の発音やアクセントを反映しているはずだから、それを日本語にしてしまったら、どうしても音符と言葉の対応関係がおかしなことになる。たとえば、「オ」を大きな声で発音することはできるが、「ウ」を同じく大きな声で発音することは難しい。「オ」と「ウ」は口の形が違うからである。歌詞の翻訳は意味を伝えることはできても、音を保持することはできないだろう。「レクイエム」とは「死者のためのミサ曲」であるから、聴きながら、自然と、『風のガーデン』の主人公(白鳥貞美)のことや、俳優緒形拳のことを考えた。ただ、モーツァルトの「レクイエム」はダイナミックというか、ドラマチックな曲なので、『風のガーデン』とは不釣合いで、やはり平原綾香が抑制された声で静かに祈るように歌う「ノクターン」(原曲はショパン)の方が相応しい。品川駅構内のダロワイユでマカロンをお土産に買って帰る。
  夜、「M-1グランプリ2008」を観た。ファイナルに残った3組(オードリー、ノンスタイル、ナイツ)はどこが優勝してもおかしくない大接戦であったが、ノンスタイルが鼻の差で(島田紳助的には「圧勝」だそうだが)栄冠を勝ち取った。この3組以外では、モンスターエンジンとU字工事が面白かった(もう一度観たかった)。サンドウィッチマンが優勝した前回の大会から、ネームバリューは劣るが新鮮でよく練られたネタを引っさげて登場してくる若手の活躍が目につくようになった。お笑いの世界にも新しい風が吹いてきた感じだ。

         
               正月や牛の母子の畦あそび 細川加賀

12月20日(土) 晴れ

2008-12-21 12:53:07 | Weblog
  9時、起床。実感としては今日から冬休み。来週は会議等で大学へ出ることはあるが、授業はもうない。ハムトースト、コロッケ、紅茶の朝食。新聞に紅白歌合戦の出場歌手とその曲目が載っていた。私は毎年、紅白歌合戦を観る。観終わって近所の神社に初詣もする。もちろん年越し蕎麦は欠かせない。決まりごとを決まりごととしてきちんとするタイプの人間なのだ。で、今年の紅白歌合戦で楽しみなのは以下の歌手と曲目である。

  赤組
  アンジェラ・アキ「手紙~拝啓十五の君へ~」
  中島美嘉「ORION」
  Perfume「ポリリズム」
  平原綾香「ノクターン」

  白組
  ジェロ「海雪」
  徳永英明「レイニーブルー」
  前川清「東京砂漠」
  Mr.Children「GIFT」
  森山直太郎「生きてることが辛いなら」

  昼食は自転車に乗って池上の「蓮月庵」に食べに行く。きつね蕎麦を食べるつもりでいたのだが、入り口のところの「冬はやっぱり鍋焼きうどん」と書かれた張り紙をみて、鍋焼きうどんもわるくないなと思い、注文した。しかし、出てきたのは何の変哲もない鍋焼きうどんで、いや、半熟玉子が入っていない(代わりに薄い卵焼きが入っていたが)ところが私には不満で、やっぱり最初の方針どおりきつね蕎麦にするのだったと後悔した。鍋焼きうどんに何を入れるかは店それぞれの方針があってよいが、海老の天ぷらと半熟玉子の2品だけは外せない、外してはならない。半熟玉子のトロリとした黄身が関東風の濃いめの汁と渾然一体となっているあたりを蓮華ですくって口に運ぶとき、われわれは冬の幸福というもののしみじみと感じることができるのだ。「蓮月庵」の向かいは「甘味あらい」で、もちろん暖簾をくぐって、贅沢あんみつを注文する。むしろ今日のメインはこちらなのだ。まず見た目の美しさを堪能し、しかるのちに一口一口しみじみと味わう。ああ、美味しかった。甘いものを食べた後は辛いものがほしくなる。もし減量作戦の最中でなかったら磯部巻きを注文したいところだったが、お茶のお替りをして我慢した。甘いものと辛いもの、どちらを先にしてどちらを後にするか、たとえば、中村屋の中華饅頭を食べるときは、私はまずあんまんを食べ、次に肉まんを食べる。逆の人もいるだろう。両手にあんまんと肉まんをもって、一口ずつ、交互に食べるという人もいるかもしれない(私はまだ見たことはないが)。甘辛順列問題は数ある人生問題の中でも、その喧々諤の度合いにおいて、5本の指に入るだろうといわれている。ちなみにまんじゅうが3個の場合は、あんまん→肉まん→あんまん、という順列を私は選択する。私はあんまんの方が肉まんより好きなのだが(中村屋の中華饅頭に関しては)、だからといって、決して、あんまんだけ2個、あんまんだけ3個という偏った食べ方はしない。これは人間に固有の行為で(たぶんね)、こうした行為の背後にある思想を、私は焼き鳥の用語を使って「ネギ間」的思想と呼んでいる(いま思いついたんですけど)。
  いったん自宅に戻り、自転車を置き、散歩に出る。「ルノアール」で珈琲を飲みながら、『風のガーデン』のシナリオ本を読む。原作(シナリオ)とTVドラマは微妙に異なっている。現場での演出がそこに加わるし、一定の放送時間の中に収める必要上カットされた場面もある。そういうことに気づくのもシナリオを読む楽しみの1つだ(TVドラマのノベライズ本の場合は、シナリオではなくTVドラマが原作に相当し、それを文章で再現したものだから、TVドラマにないシーンが出現することはない)。

12月19日(金) 晴れ

2008-12-20 11:30:21 | Weblog
  8時、起床。オムレツ、トースト、紅茶の朝食。フィールドノートの更新を済ませてから家を出る。JR東京駅から東西線大手町駅へ歩く途中にある店で昼食用の弁当を購入。大学に着いて、まずは事務所前の掲示板のところへゆく。文化構想学部の1年生の論系進級希望届けの一次集計が結果が張り出されている。

 多元文化論系         40
 複合文化論系        141
 表象メディア論系       207
 文芸ジャーナリズム論系  198
 現代人間論系        193
 社会構築論系        164

  各論系の定員は来年度は一律168名なので、上位3論系は定員オーバーである。今後、希望の変更が一度だけ認められているので、おそらくわが現代人間論系は180(定員の1.07倍)くらいに落ち着くのではなかろうか。倍率がまったくないより、多少なりともあった方がいいと思うので、そのくらいに落ち着いてくれればと思う。昨年度の同じ集計で、現代人間論系は137であったから、一年でずいぶん躍進したものだ。基礎講義のレポートにきちんとコメントを返したり、論系説明会にはいつもスタッフ全員が顔をそろえて学生に語りかけたり、「現代人間論系総合講座1・2」という論系紹介のための科目を設置して教員全員が登壇したり、論系室を訪れる学生に助教や助手やTAがていねいに対応したりと、コツコツ努力をしてきた結果だろうと自負している。もちろん論系進級にあたっては学生をたくさん呼び込めばよいというものではない。外部の学生(1年生)の目に魅力的な論系として映ること以上に大切なことは、内部の学生(現代人間論系を選択してくれた学生)の満足度を高めることである。希望の専門演習を履修できること(2年生)、希望のゼミで勉強できること(3年生)、さしあたりこの2つが重要である。しかし、専門演習にもゼミにも定員というものがある以上、全員の希望がそのまま通ることは無理なので、少数の専門演習やゼミに学生の希望が集中することがないように、学生の希望が広く分散するような魅力的なカリキュラムを用意することが大切である。そして、第一希望ではない専門演習やゼミを履修することになった場合でも、結果的に「履修してよかった」と思ってもらえる授業であることが何よりも大切である。結局、最後はそこに行き着くだろう。
  3限の授業(ライフストーリーの社会学)の後は(今日は昼休みに研究室で弁当を食べたのでいつものメーヤウには行かず)、研究室や事務所であれこれの用事を片付け、夕方から、来年度採用の現代人間論系の助手の公募に応募した人たちへの面接を行う。さして広くない会議室で10名の教員に囲まれた中での面接で、応募者たちはさぞかし緊張したことであろう。私が社会学専修の助手に採用されたときは、面接などはなく、そもそも募集などもなく、私の知らないところで先生方が話し合って私を助手にすることが決まり、その結果が指導教授から私に伝えられ、「やってくれるか」と聞かれ、「はい」と返事をする(それ以外の返答はありえない)というものだった。今は昔の物語である。

12月18日(木) 晴れ

2008-12-19 10:47:58 | Weblog
  8時、起床。ハムトーストと紅茶の朝食。フィールドノートの更新をしてから、大学へ。早稲田に着いて、ファミリーマートで昼食用のおにぎり3個(たらこ、昆布、梅干)を購入。今日は昼休みの時間を研究室で過ごす。3限の大学院の演習は、T君の報告を聞いた後、「カフェゴトー」に場所を移しておしゃべり。1年の終わりという意味もあるが、このあと成田に向かい3月中旬まで南米を旅するT君の送別も兼ねている。珈琲とケーキの送別会だ。
  新宿武蔵野館で中西健二監督作品『青い鳥』を観た。ある中学校でいじめを受けていた生徒が自殺未遂をし、転校していった。休職した担任教師の代役で教育委員会から村内という教師(阿部寛)が派遣されてくる。彼は、転校した生徒のことを忘れてはいけないと、彼の机と椅子を教室の元の場所に戻し、毎朝、「おはよう」と声をかける。生徒たち、親たち、教師たちの間に動揺が走る・・・。阿部寛の主演ということで期待して観たが、実際、佳作とは思うが(とくにいじめた側の生徒の一人を演じた本郷奏多の繊細な演技が光る)、帰りがけにプログラムを購入するには至らなかった。なぜだろうと考えて、それはたぶん私が阿部寛演じる吃音の国語教師の行動やまなざしに一種の狂気を感じたからだと思う。生徒会の役員の会合のとき、彼が「みんな間違っている」と強い口調で語るシーンがある。「みんな間違っている」という判定と、自分の考えは正しいという認識は表裏一体である。そうした彼の認識は、映画の中では、彼が過去に教え子をいじめが原因の自殺(おそらく校舎の屋上から身を投げたのだろう)によって失っていることに由来するものとして描かれている。彼は辛い経験をし、苦しみ抜き、教師は生徒とどう向き合うべきなのかという彼なりの信念をもつにいたったのだ。なるほど、彼はそんじょそこらの教師とは違う。しかし、トラウマチックな経験とある信念が結びつくとき、私はそこに怖さを感じる。トラウマチックな経験には、愛情と同じで、その人の言動を正当化する作用がある。そうした経験のない人間にはその人の言動を批判することがはばかられる。つまりトラウマチックな経験が権力の源泉になってしまうのだ。重松清の原作(小説)では、最後、村内が生徒たちに事件についての反省文(それは教師たちの指導の下で書かされたものである)の書き直しを促し、全員が自分の言葉で反省文を書き直すという「感動的な」場面で終る。しかし、映画では、その場面は、書き直す生徒もいれば、その必要を感じず自習を始める生徒もいる、というふうに描かれていた。非ドラマチックな修正であるが、それは村内を必要以上にヒーロー化しないということであり、原作よりも映画に奥行きを与える効果があったと思う。
  夜、『風のガーデン』の最終回を観た。脚本、演出、役者の演技、どれも素晴らしい。堪能した。とくに主要な登場人物の一人一人に最後の見せ場を作る倉本のいつもながらの配慮には感心した。1月から同じ時間帯で、今度は、山田太一のドラマが始まるという。至福というほかはない。

12月17日(水) 雨

2008-12-18 10:14:42 | Weblog
  8時、起床。目玉焼き、トースト、紅茶の朝食。ベーコン・エッグにしなかったのは、今夜はコンパで焼肉を食べるからである。9時に家を出て、久しぶりで混んだ電車に乗る。座れないのはしかたないとして、本が開けないのが辛い。貨物列車の貨物のような気分だ。
  10時から本部で開かれた会合に出席。1時間半ほどレクチャーを受ける。インストラクターを勤めた女性職員は文学部の社会学専修の卒業生で、かつて私が授業で教えていた学生である。因果はめぐり、今日は立場が逆転した。手をあげて3回も質問してしまった。
  戸山キャンパスに戻り、社会学専修の教室会議に途中から出る。出られないかもしれないのでお弁当の手配は不要といってあったのだが、結局、「たかはし」の二重弁当を食べることになった。助手のK君が自分の分を回してくれたのかもしれない。気配りのK君にはそのうちナンカ送っておきましょう(「踊るさんま御殿」のナレーターの口調で)。
  2時から教授会だが、学生数名に急ぎのメールを書かないとならなかったので、1時間ほど遅れて会議室に入る。今日は寝不足気味で、途中で強い眠気に襲われる。そこで少々ウトウトしたら、頭がスッキリした。
  生協の書店で以下の本を購入。TVドラマの『風のガーデン』は明日が最終回。シナリオを読むのはそのあとだ。シナリオがそのまま本になるのは倉本聡や山田太一といったごく一部の作家に限られる。TVドラマが本になるときはほとんどがノベライズ(小説の形にしたもの)で、水で薄めたビールのようである。

  田上孝一ほか『<人間>の系譜学 近代的人間像の現在と未来』(東海大学出版会)
  岩崎稔ほか編『戦後日本スタディーズ3 80・90年代』(紀伊国屋書店)
  倉本聰『風のガーデン』(理想社)
  柴田元幸編・訳『柴田元幸ハイブリッド』(アルク)

  6時半から「ホドリ」でコンパ。私を入れて8人のミニ・コンパで、テーブル1つ(コンロ2台)で全員が座れる。「ファミリーセット」(5人程度)という大皿を2つ、キムチとナムルの盛り合わせを各2つずつ、各自の飲み物、肉を焼き始めてからご飯とワカメスープも。「ホドリ」は大学院の学生だった頃からの馴染みの店(ただし当時は別の名前だった)で、いまでもたまに学生たちと来る。肉皿を追加注文して、お腹いっぱい食べても一人3000円で収まる廉価な店だ。7人の学生は全員、現代人間論系の2年生で、来年からのゼミ所属は私のゼミが5人、安藤先生のゼミが1人、草野先生のゼミが1人。現在進行中の半期演習ではいろいろな先生の授業に出ていて、学生の目に先生方がどのように映っているのか、彼女たち(今日は全員女子学生なのである)の話からよくわかった。私の左隣のOさんからは、「大久保先生は夏でもジャケットを着ていて、たいてい青系か茶系ですよね」と指摘を受ける。これって、もっとファッションに気を遣った方がいいですよという意味だろうか。「全体のイメージは緑で、ほら、今日のセーターも緑系ですよね。」う~む、と私は思わず唸ってしまった。Oさんは安藤先生のゼミ生となる学生なので、安藤先生、気をつけましょうね。私の真向かいに座ったIさんからは、「先生の年収はいくらですか」とか「なぜ奥様と結婚されたのですか」という芸能レポーターみたいな質問を受ける。もっとも、私もその前に「あなたは誰のゼミですか」とトンチンカンな質問をして(Iさんは私のゼミなのである)、Iさんにショックを与えていたので、これでご破算である。私と彼女たちとはちょうど親子ほどの年齢差であるが、私は自分の娘とはこのような会話はしないし、彼女たちも自分の父親とこのような会話はしないであろう。相手の性別・年齢は同じであっても、役割関係が違うと相互作用(会話)はかくも違ったものになるのである。コンパは9時ごろお開きになる。外に出ると、冷たい雨はまだ降っていた。