King Diary

秩父で今日も季節を感じながら珈琲豆を焼いている

本日の珈琲

2009年10月09日 13時16分35秒 | 珈琲
グアテマラアギーレです。

私もかつてスペシャルテイコーヒーを飲み始めの頃
だったらこれはすばらしいと大騒ぎしたかもしれません。

ただ、最近は自分でも豆を焼きますので、別に
ああそうなの程度しか感じなくなっています。

もしかしたら、いくらすばらしい豆でも焼きたての
自分の好みの味を自分で操れるようになると豆の
特性なんか関係なくなると思いますよ。

つまりよく水分を抜いて誰でもうまく焼けるように
すればもっと気軽においしい珈琲が飲めると思います。

よく焙煎したてを送ってくれる店でもよく火が通っている
という店の味が必ずしも豆の特性を引き出しているとは
限らないのです。

どちらかというとそういう店は、小さい釜でちまちまと
焼いているので、コゲ臭を含んでいてよく膨らんでいれば
味は飛んでいます。

これは自分で熱風式の釜で焼いてみるとその風味というか
うまみがこれほどまで抜けてしまうものかというのは
強く感じます。

甘い香りがいつまでも部屋に漂いますので、結局これを
豆に閉じ込められず全部飛ばしてしまっているんだと
思います。

それをかいで豆にもそういう臭いがつまっていると
思う人もいるみたいですが、それは希望的観測でもう
それは外に出てしまっているのです。

もう淹れるときに同じ匂いが漂うなどとは願うべくもない
のです。

注文して焙煎のお店の多くは、自分だけそんな甘くフルーティ
な香りに包まれておいしい豆を焼いているという幻想に沈んで
いるのです。

味の厚い珈琲を飲みなれてくるとブラジルやキューバなど
中庸系の豆がとても軽くてつまらなく感じてしまいます。

アフリカ系の香りが独特の豆を知れば、後はグアテマラなら
もうグガテマラの味しかしないわけです。味は苦味とコク
甘みと酸味とクリアになればなるほど感じるものは限られ
きます。

となれば、珈琲単品の個性を云々しても仕方ないように
感じてきます。

やはり求められる味をデイリーに出せるブレンドが一番
望まれるもので、単品の特級豆を愛でるのは得策では
ないのではないかという意識がもたげます。

そういう意味では、エインジングという日本固有の飲まれ
方もうなずけるものがあるのです。

そして自分で焙煎してまたひとつ発見したことは、酸味
です。

酸味を消すには焙煎を深くする必要があります。逆に
いえば生焼け豆が混ざるといやらしい酸味がします。
そして深く煎るとその酸味が消えますが、甘みとともに
酸味も出てくるのです。

香りにも酸味というかスーッとした柑橘系とか鼻に抜ける
香味というか独特の風味を持つものもあり、それは豆の
味といより特性であり、舌に残るものではありません。

しかし、コゲはほんの少しでも入ると他の味を著しく
阻害してしまいます。

これはほとんどの人が気持ちいい味とは感じず不快に
感じます。豆の表面や外観にコゲが見られなくても芯が
コゲてしまったり炭化してしまうことがあり、本人は
ムラなく膨らみよく火が通ったという豆でも炭を抱いて
いることがあるのです。

結局、小さい自家焙煎店は味が抜けているか、コゲがある
かどちらかのことが多く、似た味なら個人で案外簡単に
たどり着けます。

みんながみんな自家焙煎をはじめるというのも考え難い
ことですが、より消費者に需要を喚起しまだ見ぬものが
あるとあおる必要があり、スペシャルティコーヒーだとか
カップオブエクセレンスとか言い出したのではないかと
思うようになりました。

というのも究極のおいしい珈琲を供給するというふれ
こみではじめられた日経マガジンでも取り上げられた
六本木の珈琲屋さんはuccのコーヒーハンターだった
方がはじめられ何十万で一年間一級豆の農園の豆だけを
ストックして500gづつ焙煎して送ってくれるそうです。

それも風味が抜けないようにシャンパンボトルに詰めて。

これなどはどうやらその装置の仕掛けだけでそのコストが
嵩んで一年云十万という料金になっている感じがします。

つまりは、素人焙煎でももう今以上の味は今後望めない
のではないかということです。そして、後あるのは
エイジングして独特の世界に浸るとかないということ
でこれはもう素人が入っていけるものではないし、
年月という抗し難いマジックなので自分で生み出す
ものでもないし、味わうのなら人の作ったものを
時たま味わうので十分でしょう。

そんなことをつらつらと考えさせる一杯でした。
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紀尾井町で聞いた異質の『月光』

2009年10月09日 01時37分28秒 | ライブ・コンサート・展覧会
何でベートヴェンのピアノソナタ14番は『月光』というのか
エピソードとしては知っていても、それに納得している
人はいないのではないでしょうか。

それは昨今横行している技巧を見せ付けるような演奏方法が
イメージとして昔詩人がつぶやいたような光景に結び
つかないばかりか、そもそも曲の持つメッセージとも
違うのにみんながこれを月光と呼び、慣れ親しんで
来たため、おかしなことになってしまったように
感じます。

台風の直後の交通の乱れた時に私は
昨日、紀尾井ホールへ日本ではあまり知られていない
ペーター・レーゼルの演奏を聞きに行きました。

日本ではまったくなじみのないピアニストですが。

日本というか、西側諸国にはなじみがなかったというか
東ドイツからソ連に学んでという経歴で知られていなかった
というだけなのでしょうが、私にはこの名前は地元のピアニスト
の師匠だという知識から、それが来日して演奏するという
これまた地元ピアニストのコンサートの時もらったチラシから
これは是非聞いてみようと思ったから出かけたのです。

当初、台風のほかにも重大な出来事があり、かなり前に
買ってあったチケットですが、行けないかもしれないと
半場あきらめていたコンサートでした。

しかし、予定通り行ける事になり、台風も無事通過して
雨もあがり、朝西武秩父線は止まっていたものの、午後には
当然動くものとして駅に行きました。

すると西武秩父線は動いているものの、その先の飯能-小手指
間が不通となっています。

急遽車で小手指まで行き、後は電車で行くことにして
うちに引き返しました。
車でそのまま行ってもよかったのですが、やはり電車の方が
時間通り着くので確実です。

都内のコンサートなのに席は満席ではなくてやはり知名度
のせいか知っている人は来ているがみんな飛び切りのベートー
ヴェンファンかピアノの先生かという感じの観衆です。

私の席は前回の川越でのコンサートと同じように前から3番目で
ペダル捌きや手の動きがよく見える絶好の位置です。

そして彼のピアノは本当にすばらしい。

今まで聞いてきた誰の『月光』よりも美しい。

そもそも月光なんてタイトルじゃやはりおかしいよ。
楷書というような彼のピアノを評する形容詞もこれまた
的を得ていないのです。

月光の出だしを聞いたときから息を呑みました。
まずそのゆっくりとゆったりとした指使いにいつも聞く
バックハウスの厳格も正統もかなわない崩れ落ちそうな
美があり、これ以上やるともう崩れてしまうそういう
ぎりぎりの危うさと破綻した魂を内包し、しかし、誰にも
真似できないたたきつけるようなしぐさでない力強さを
全体にみなぎらせているのです。

今まで聴いたことのないベートーヴェンでありながら、
これがそうなのかもしれないという確信が沸くのです。
バックハウス、ケンプ、仲道郁代、高橋望と誰とも
かぶることなく、何の誇張もなくすんなりと聞ける
ピアノでした。
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