King Diary

秩父で今日も季節を感じながら珈琲豆を焼いている

自由な発想を

2010年01月30日 11時11分45秒 | 珈琲
イメージの固定というのは危険なんだということを
今朝は感じました。

自分の趣味の世界でも、色々試してある一定の結論に
たどり着いたとしてもそれに固執してはならないと
いうことです。

人の好みやある技術レベルでも時の移ろいとともに
それは変化するし、増して自分の好みの問題となると
時の流行よりももっと鮮烈な変化を受けるからです。

たとえばスキーの技術で、大回りにはとにかく外足に乗って
滑るのが大事で、それができなければ上級ではないと
結論付けたとしても、何年かして世の中では、内足を
使えないと一流ではないと言い出し、内足主流で滑る
のがいいと雑誌やら何やらで載るようになります。

まあ、外足にしっかりと乗れないと小さなギャップや
雪球にあたってもこけてしまうなんてこともあるのですが。

いわれることとか世の中の通説なんていつころころ変わるか
しれないのです。

本質を知ることの大事さと何でもかんでも信じてしまい、自分の
考え方を固定してしまったり、ひとつのものに固執する
ことの危険さを感じます。

そんなことをなぜ書いたかというと、5年前のこのブログの記述で
モカマタリを飲んだことを書いていてモカなんてストレートで
飲めたものではないと書いていたからです。

最近、喫茶店めぐりをして一番飲むのはモカであり、うちでも
一番ストックしているのもモカです。

最近のお気に入りは、ニカラグアなんですが、誰でもうならせる
ことのできる豆はケニアではないかと思っています。

これは手持ちの豆の話ですが、詰まり私が珈琲好きのお客を迎えて
お出しするとしたら、飲んで珈琲談義をするのならモカでしょう。

ただ、おいしい珈琲を飲ませてよと訪ねてきた友人には、やはり
ケニアかドミニカで作ったブレンドを出します。

これで目をむいて美味しいといわない人はいないからです。

こうなると当時モカを誘導するように珈琲の話しをしてくれた
人は相当な珈琲通ということになります。

5年経ってその真意が伝わったような気がしました。

それにしても昔から珈琲を飲んできてもつい5年前には
こうだったんだという衝撃の事件でした。

それも若いときに珈琲はブラジルというイメージを植え付け
それをずっと盲信してしまったおかげです。

そのブラジル信仰から抜け出したのもまだ半年。

もっと早く気がつけば、おいしい珈琲をたくさん飲めたのに。
コメント
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