King Diary

秩父で今日も季節を感じながら珈琲豆を焼いている

年に一度か二度

2019年10月11日 09時00分20秒 | 珈琲

一昨日のノーベル化学賞の受賞で昨日はずっとその話題でしたが、夜のニュースで

受賞理由が陰極の素材を開発したとなっていました。私はずっとセパレーターの

特許だと思っていたのですが、どうやら陰極の開発が電池発明につながったからと

いうことらしいです。

 

ここ数日は朝飲む珈琲は焙煎を失敗した焼きすぎた豆です。

これは引っ越し作業で目を離した際に予定より焙煎が進んでしまい売れなくなったものです。

とはいえ飲めば飲めるので自宅消費となったのですが、久々にガツンと来る珈琲で朝を迎える

ことになっています。

 

ちょっと朝にはふさわしくなく、もっとコロンビア的なものを飲みたいのですが、一釜分の量が

あるのでしばらく飲み続けねばなりません。

 

ノーベル賞は文学賞の発表があったようですが、日本人受賞者ではなかったためか朝のワイドショーなど

ではもう触れられず、もっぱら台風の話題ばかりです。

 

私もこの台風の影響を受けもろもろの予定変更を迫られました。中でも一年に二度となった豊島との

試合の日が日曜日で台風の進路予定では13日はすでに通過して大丈夫そうだと思ったら中止の報が

理事から届きました。年に二度しかない交流試合が一度になってしまうというのはずいぶん悲しい

ことです。何もこの日にという思いをした人は私だけではないはず。ワイドショーなどでは結婚式の

予定の人とかを取り上げていましたが、そんな一生に多分一度しかない人生の晴れの日に台風が来襲

してしまうという何とも言えない無念を思うと私の場合はまた次があるさとあきらめもつきます。

 

市民リーグなど一年に4、5回ありいつも顔を合わせるのもなじみのメンバーでさらに豊島でも

いつものあの顔という感じになっていて毎回やることも趣向もそう変りなく、そのあとの懇親会

なども会場も毎度となると出てくるものも交わされる会話もいつも同じというようなことになって

いるもののこれがないとなると何とも言えない強い喪失感があるのでした。

 

マンネリと言いつつこの朝の挨拶のような当然交わされるべきものがないという理不尽な感じは

埋めるべきものもなくぽっかりとあいたままなのでした。

 

反面なぜか毎年テレビで特集される宮沢賢治が取り上げられる番組は後を絶ちません。今年も

NHKでは健康問題から取り上げていました。昨年の宮沢賢治銀河への旅というドキュメントでは

作品のネタばらし的な内容で随分あからさまでそこまでさらされてしまうのかという違和感が

募り、今まで新興宗教に妄信して突き進んだというようなことはあまり触れられずにその宗教

思想や仏教理解からもろもろの観察があり、作品世界に通じているのにそれは触れられないこと

が多かったのが、それよりも保坂嘉内という親友との交友を同性愛的なものとして解説して

作品もその交流から生まれたという描き方にすっかり色あせて見せられた感が強く、それ以来

宮沢賢治が取り上げられてももういいだろうという気がするばかりでした。

 

最近起きる事象やら発見される宇宙の謎などを見るたび宮沢賢治の先見性や自然観察の妙など

感じますが、そういう時代的に見るよりも東北の自然の中に暮らして芸術と農村の共栄のような

思想とか童話という作品スタイルなど外観的なイメージで誰もが好イメージの宮沢賢治も実際に

その作品をよく読んでいる人は少なく、作品でもない雨にも負けずなどの詩だとか銀河鉄道の旅

の意味より銀河鉄道999のイメージの方が強かったりしているのです。東北、農業、自然と宇宙と

芸術と人気の人のイメージしかなくそれにこたえるような番組が作られるという環境なのでしょう。

 

とまあ夢はあっというまにさめてしまうもので、あまりはっきりしないものとかすぐに理解できない

けれど何か気持ちのいい感じとかそのイメージのままどこまでも引っ張りたいということでは、

宮沢賢治の作品を読み込むということではなく、あまり作品や本人の思想などに立ち入るのでなく、

健康問題やどんなものを食べていたということの方がそのイメージを壊すこともなく淡い憧れと

好きという感情は離れないのでしょう。作品はどれも自己犠牲の物語だったり、孤独の色の濃い

暗い物語だったりで死のイメージだったりとどれも楽しいものではありません。それなのに

宮沢賢治というと童話作家としての人気の確立は揺るぎなく、毎年関連特集の番組が後を絶たないと

いう不思議な現象です。

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