King Diary

秩父で今日も季節を感じながら珈琲豆を焼いている

『羊の木』『サバイバルファミリー』ついでに『サ道』最終回の感想

2019年10月22日 09時56分56秒 | 映画

今朝はまた雨です。昨日は引っ越し作業で全身汗まみれになり走るのを中止、

夜中の強い雨でなぜか寝付かれず、この雨でまた作業が遅れ全体の計画も遅れて

しまうことをずっと考えていました。今月中に焙煎事業を新店舗に移すのもこの

雨続きで今月移行が遂行できるのか不透明になってしまいました。そんなことを

つらつら考えて先月と今月の違いがあまりの変化とそれを人生というステージで

見た場合とか比較しているのでした。

 

ただ、考えてみると当初の予定の変化とアクシデントから今のこの店舗とこの場所を完全に明け渡すと

いうこともなくなり、きれいに全部移転させることもないとなると果たして店は

移転するべきなのかということもふと考えてしまうのでした。

 

この雨の朝、いろいろの予定も実は今日は即位礼正殿の儀で国民の休日だというので

また全体の行動計画が変更を強いられ世の中と同じで休日モードとなってしまいました。

雨によりお客様の出足も少なく、時間も空いたのでここのところ見た映画の感想など

書いておきます。

 

『羊の木』というのが一番最近見たアマゾンプライムの映画です。

これは名前からつい見てしまいました。我が家の上の羊山と秩父の羊太夫の伝説から

三四郎や村上春樹までなにかと縁のある羊を題にする作品には強い引力を感じます。

昔から羊がいた羊山公園はなぜ羊山公園なのかというのは諸説あり、羊がいたというのも

その起源もはっきりとした起源とか時期とかの記録も定かでなく、だれが何のためにと

いう問題もあいまいなまま、ただ昔から市民の憩いの場であり、そこには羊がいたという

ところです。そこにまつわる思い出とかイメージは実に色々な物を含み、なぜか今でも

夢で何度となく見るその山をさまよい体験したイメージとか出会ったこととかいろいろなストーリーが今でも

展開しているステージなのです。

 

そんな羊が木に生るというイメージがどうこの映画に絡んでいるのか不思議な感じと謎的に

引き込まれてつい鑑賞に及んでしまいました。

 

出ている俳優陣の割にストーリーとかテーマが実際に何なのか、何が羊の木のイメージと

重なるのか全然意味不明であり、現代的なテーマながら何を意図したのか最後まで不明と

いう感じの悪い消化不良でつまらない話でした。それなのに羊の木の意味を知りたくて

また原作も読んでみるということに及んでしまいました。そして、原作を読み作者のインタビュー

記事などを読んだところでああなるほどと感じて何がしたかったのかは了解しました。

ただ羊に起こされた私の感情は何かと収まらず、ものすごい消化不良のままとなるのでした。

 

そのしこりの事を書くと長くなり、傘に傘を重ねるようなことになりそうなので次にその前に

みた『サバイバルファミリー』に移ります。これは当時映画館で何度も予告編を見ており、テーマ

としても面白いと思っていたので、プライムにあったのでちょっとした空き時間に見たのでした。

 

しかし、これが期待したものがすべてなく、これは何のために何を描くためのものかという疑問が

残るのでした。つまり現実的でなく、いきなり電気が使えなくなる世界を描くのですが、なぜか

主人公家族は高速道路を東京から鹿児島まで自転車で向かうという設定にありえないおバカ設定に

最初から物語についていけないのです。電気の消えた理由が太陽フレアによるものということですが、

もしそれが原因とするならものすごいパニック映画となりそのパニックぶりを描くのが主題でしょう。

ところが電気と電気製品やデーターが消失した世界を描くことなく家族がその世界で無傷でお気楽に

自転車で鹿児島に行くという発想がまずありえないことであり、電気のない世界を生き抜くことがテーマ

でないばかりか、電気が使えない状況で旅をして家族がまとまったというテーマを描きたいという

監督の意向はあまりばかげていてそんな設定にしないと描けないテーマだったのかお金をかけて

作る作品だったのかという作品の存在意義が最初からないようなイメージなのです。

 

実際に毎年夏の暑さだけでも死者が出て、台風や前線の接近で大雨が降り、その他火山の噴火や地震と

災害で毎回死者が出ている現在ではもっと国民の安全は切実なテーマなはずです。自然災害が身近となり

現実に長期停電を経験している人も多くいる中、こんなおバカな家族のことなど誰が見たいと思うでしょう。

 

まず電気がなくなるとお金は何の役にもたたず水や食料が一番大事という世界を描きたかったのか、

そういう世界では家族が一つにまとまるということを描きたかったのかいずれにしろそのどちらも

現実味とか切実とした世界とはかけ離れており、そんなお気楽なことで世の中済むはずがないという

現実を実際に今の人たちは生きており、被災地の人の苦労は今も続いているのです。

 

かといってそれが悲劇として描くものではなく、実際には起きるべきして起きていることで、

高村薫の『土の記』のごとく描いてしかるべきなのです。

 

私はことあるごとに地方の貧しさとか都市部との格差とか考え地方の不利をいつも思うのですが、

それは必ずしもハンディとはならないことも最近感じます。というのは地方ではよい教育とか

ビジネスチャンスとかやはり不利で地方から飛躍したり、能力を生かすことも無理があるとずっと

思っていましたが、現実に地方で生き生きと生き抜く若者の生きざまとかを見ていると地方だからと

言い訳をしていることの方が強く、実際に進路も既定の進学校に通い良い大学に行き、一流企業に

就職するという考えの人より、あえて通信制の高校に行き、高校生のうちに起業する人が現実にいる

のを目の当たりにして今はそれだけ自由であり、学歴社会だとかいう身分制度が残る国だと国際競争力も

なく埋没してしまうのです。

 

今や企業がネット資産を保証する時代になり、もはや国の役割とはどんどん境がぼやけてくる傾向にあり、

実際の国土面積とか経済規模とか軍事力という画一的基準が当てはまらない事態はどんどん増えていく

でしょう。そんな事態ながら日本の考えはこんなおバカ設定の映画しか作られないというのはなんとも

情けない話です。先の羊の木の原作も描きたいのは身近の犯罪者の存在に対して感じる肌感覚というもの

でした。つまりこんな肌感覚が今後新たなコミュニティとか人間関係とか新たな発展を見させてくれるの

ではというのが作者の意図であり、それがただのサスペンスや喜劇や悲劇としない映画の世界を作るのが

日本の映画のすべきところなのにと各予算が限られているとか言い訳やこだわりでくだらない娯楽作品

ばかりになっているのを感じます。

 

そんな中、低予算でもヒットするという話題作は今でもあり、これは通信制高校にあえて通うような人も

映画界でもいることを感じさせます。いまや映像のネット配信というのが当たり前になり、映画のように

同時に大勢の人が見て一つの映画がずっと一つの映画館にかかるという状況より、どれだけの人がみたかと

いう単純に面白いものを作る世界に代わりつつあり、そのテーマにしろ大勢の人が一緒に見て感動できる大作より、

空いた時間にひっそり一人で見る世界で誰も見たことの世界を描くという個人的な趣向のものに変化して作る方も

特異な世界とか設定とかどれだけ話題を作り出せるかにかかっておりどこまでやるかの世界でその予算も

一つの映画の脚本に金が付くという形式より良い企画にシリーズで金を集めやすくなっている感じもします。

だからゲームオブスローンズ一話の予算が一つの映画以上の予算で作られたりしているのです。

 

日本でもwowowだけに流れるドラマとか流通方法が変わり、安易にアイドルを主役にしたからと言って

簡単にヒット映画はできる時代でなく、テレビでヒットしたから映画を作るという世界とも違う状況は

解っているはずですが、あまりに内容が伴わない原作の意図を無視しし金をかけているのに駄作が多いと

感じます。

 

さて、これは書こうとしていてそのままになっていたサ道の最終回の事を書いておきます。このドラマは

サウナの紹介ドラマのようなサウナの世界を描いたものでこれは原作よりドラマの方がよいと感じたもの

でした。最終回だけ少し間が空いてやったので危うく見逃すところでしたが、どうにか録画してみたのですが、

この最終回を見たことで全体のこのドラマの価値とかテーマとかをまた考えたのでした。

 

テーマは単純にサウナの魅力の紹介という隙間的なものです。昔からサウナ好きはいて日本にはスーパー銭湯

とか温泉ではないけれどそれをしのぐ入浴施設があり、そこに熱心に通う人たちもいました。この原作は

一つのブームを生むくらいヒットしてプロサウナーという言葉を生むくらいの成功があり、人々はこの

整うというのを体験したいと興味を示した結果サウナの聖地とかサウナーや熱波師なる人が現存し、あたかも

道があるかのように感じたのが実写化も試みられるヒットとなったのでしょう。

 

原作はサウナで整うということをテーマにしたのでなく、自身のサウナへの傾倒を幻のサウナーZを創造する

ことでストーリーとすることに成功したのです。毎回独特なサウナを紹介し、そのオーナーや店主にサウナとは

という質問とサウナーZを知っているか聞くという行動が物語性を与え、別に整う経験のあるなしにかかわらず

物語を見続ける目的を生み出すことに成功し、見るたびサウナの世界の広さと面白さを感じさせたのです。

しかし、最終回は突如整わなくなった主人公がサウナーZに再会を果たし、また整えるようになるのかという

大団円なのかというとそうではなく、その落ちと合わせるとそもそも整うとはだれでも到達できる確実なものか

それともただのサウナ好きの言い訳なのか良く解らないとなってしまい、サウナの王道=整うなのかもぼかした

ところがまた秀逸な感じを受けました。だから原作の漫画よりこのドラマの方が実用的価値の高さや見るだけで

楽しめるしよく映像化したと思うのでした。へたな虚構性やコントのような演技しか

できない俳優が演じる映画が多い中映像作品という意味では存在感が前の二作よりあるのでした。

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