吉田クリニック 院長のドタバタ日記

日頃の診療にまつわることや、お知らせ、そして世の中の出来事について思うところ書いています。診療日には毎日更新しています。

海苔でノロウイルス感染症 その3

2017年03月13日 05時48分40秒 | 日記
 今回の海苔加工業者は「ノロ加工業者」と言われた。しかし成した罪は重く、関係業界に及ぼす波紋は大きい。おそらく今回の一件で、飲食業関係者に与える規制も厳しくなるであろう。
 特に我々医療機関には、ノロ感染者をいつから就業させるかという命題がつきつけられる。
「あそこの医者がもう従事していいって言ったので働きに出た。そうしたら客が下痢して、それはノロだった。あの医者はもうOKっていった」と言われればすべてこちらの責任になる。
 そうならないようにするにはこちらも十分「安全係数」を上乗せすることになる。もう大丈夫かなと思っても、「いや、あと1週間はだめですね」なんてことになれば、飲食業界にあたえる影響は大きいものになる。
 とりあえず自分のクリニックにきた感染性胃腸炎の患者には「下痢がおさまってもだめです。新たに今まで通りの普通便になるまでは就業してはいけません」と告げている。

海苔でノロウイルス感染症 その2

2017年03月11日 06時13分12秒 | 日記
 今回「海苔」という乾燥環境下で長く生き続けていた理由は、細菌ではなくウイルスであるという特性もある。ウイルスは乾燥環境下でも生き続けることは知られている。
しかし今回の乾燥した海苔も感染源になるというなら、ほとんどの食品が感染源になるということになる。もちろん加熱すればいいのであろうが、火を通すモノでなければ全部ダメということになる。

 今回、下請けの海苔加工業者の社長がノロウイルスにり患していたにもかかわらず、素手で海苔の裁断を行なっていたとのことである。ノロが細菌ならほとんど発症しないと思うが、やはりノロはウイルスなのである。劣悪環境でもじっと隠れて生き続けるようである。

いずれにせよこの食品加工業者には猛省が必要である。今後世の中での規制が一層厳しくなると思う。不必要なくらいまで感染防御や行政による食品管理の規制が厳しくなるであろう。この業者の犯したことは、今後「羹に懲りてなますを吹く」ところまで世の中の規制が厳しくなる可能性があるので、とても罪が重いのである。

海苔でノロウイルス感染症 その1

2017年03月10日 06時13分41秒 | 日記
 いやはや驚いた。この前、小学校を中心に約1000人ものノロウイルス感染症が発症した。原因は食材のうえにのせる刻み海苔であったそうだ。まさかと思った。今まで知られた感染源とは異なるのである。もちろんノロウイルスの感染力と言うのはものすごいものであると知っていたが再度、この感染力のすごさ実感したしだいである。
 その他の食中毒、たとえばカンピロバクター腸炎の場合、発症するに必要な病原微生物の個数は1000~10000個必要である。ところがノロウイルスの場合、僅か10~100個で発症するのである。ほんのわずかな汚染で発症することは知られていたが、今回驚いたことは「海苔」という乾燥して時間の経過した場所にも長く活性をもっていきつづけるということである。
 今まで子供が吐き戻した吐物や、下痢便のあったトイレ掃除ででも感染することは有名であった。しかしこれは湿潤環境である。微生物が活性化を保てる環境ならば納得できる。

どうなんだか? その4

2017年03月09日 05時23分30秒 | 日記
 急患の電話連絡をする際の最悪のパターンである。特に公立病院に多いのであるが、まず電話をすると交換台がでる。そこで用件を最初から最後まで言わせられる。そうすると「あ では診療連携室とかわります」と転送される。
 診療連携室でも最初から最後まで用件を話すことになる。そうすると「あ では救急外来に変わります」と転送される。
 救急外来の看護師にも最初から最後まで同じ話をさせられる。そうすると「あ では当直の先生とかわります」と転送される。
 そして当直の医師にもまったく同じ話をさせられる。すると「じゃあ、病棟のベッド確認しますので、こちらからまた電話します」と・・・。

 そして待てど暮らせど電話はない。こちらは外来に「嫁ぎ先」の決まらぬ急患をウン、ウン唸らせながら待たせたままである。
 業を煮やし、こちらから再度電話すると、「業務に忠実で融通の利かない」交換手に「ご用件」を最初から最後まではなさせられる。
 この繰り返しを経てようやく、そのくだんの医師にまで取り次がれるとけんもほろろに「あ 今、満床ですので受けられません」となる。
 こんな話は今までごまんと経験した。公立病院で、しかも独立した救急部のない医療施設で「100%急患断りません」って・・・信じられるわけないでしょう。

どうなんだか? その3

2017年03月08日 06時22分52秒 | 日記
 もちろん自分が勤務していたのは私立大学の救命センターであるから、当然独立した救急部門形態である。当時の労働環境はよくなかった。
 それが「超過勤務に厳密な公立病院」で、しかも「独立していない救急部門」でありながら、それで「絶対に急患断りません」ってよく言えるなと思うのである。
 
 この「いつでも断りません」宣言でよくありうるのは、院長は数年おきに交代するので新たに着任した病院管理者は現場の状況をよく把握しないまま、病院収益をあげんがために「いい顔」で対外的にアピールするパターンである。
 「100%急患を断らない」ことがどういうことで、何をどうすればいいのか分かっている人なら、とても気軽に言い出せる言葉ではない。

 残念ながら自分の経験では、「その」公立病院が公約を守れるなんて最初から信用なんてしていない。
 最初から、電話連絡して嫌な思いをするとわかっているので、お願いすることはないだろう。

 「絶対断わりません」などと言わなければ、何かの流れで急患をお願いすることもあったかもしれないが、逆にこの言葉で信用を無くしたのである。

どうなんだか? その2

2017年03月07日 06時37分32秒 | 日記

 自分は救急医療専属を25年以上にわたってやってきた。いろいろな救急医療体制の病院にも勤務してきた。そんな自分からすると「絶対に断らない」と断言するにはよっぽどの自信がないと言えない言葉である。あるいはその逆に救急医療をまったく知らない管理者ならば言える言葉かもしれない。

 この「断らない」という言葉には相当な覚悟と現場の献身的な協力がないととても言えない言葉である。もし一度でも断ったならそれは「公約違反」になる。そして理由の如何にかかわらず一度でも断ったなら「二度と」紹介がなくなると思っていたほうがいい。救急だけでなく通常診療での紹介も「信用できない」ということで紹介は敬遠されることになる。

 これは自分が今まで経験してきたことである。昔自分の勤務していた救命センターは「絶対断わらない」という理念でやっていた。今では超過勤務時間が・・・などと言われるだろうが1~2週帰れない(帰らない)ことはざらであった。朝から夜中まで仕事はエンドレスに続いたのである。仕事に終わりはなかった。一番優先されるのが睡眠時間である。家に帰れば確実に睡眠時間は短くなるため病院にいたほうが寝られた。このように個人的な頑張りによって支えられてきたのが救急医療である。
 今の時代、このような勤務体制はありえないが、ある程度は医療従事者の自己犠牲の上に成り立っている部分もいまだに残っているはずである。

 その「絶対に断りませんよ」と言った公立病院にどれほどの覚悟と体力があるのか疑わしい。

どうなんだか? その1

2017年03月06日 05時25分53秒 | 日記
 所属地区医師会からの回覧ニュースにかいてあった。近隣公立病院の運営協議会に地区医師会の役員が出席されたのであるが、そこでその公立病院では「救急は絶対に断らない方針であるので豊島区の開業医から紹介を今後よろしくお願いします」と宣伝されたとのこと。
 「絶対に」と言ってきた病院は過去数知れずある。しかしながら今までの経験で、そういわれて「はいそうですか、それなら」と電話で急患の受け入れを確認すると断られることも結構多いのである。

 病院管理者の対外的なアピールに比して、現場での医師、看護師、事務職、検査部門の配置や夜間勤務の体制構築が追いついていないことがほとんどである。
 24時間365日常に100%受け入れるなんてことは、通常各科の医師が日替わりで持ち回り対応する救急では絶対に無理なのである。完全に救急部として独立した診療体制を組んだとしてでも大変なのに、所謂臨床各科医師の片手間での救急対応ではこれこそ絶対にむりなのである。
 これは過去の歴史が証明しているのであるが・・・。

3月

2017年03月04日 06時25分09秒 | 日記
 いつもこの表現を使いますが、もう3月です。
 この前新年を迎えたと思ったらあっという間に2か月経過してしまいました。
 少しインフルエンザはピークを越えてきたようですが熱発患者さんも多いです。今、再度小流行しているのが感染性腸炎です。吐いたりくだしたりしていたら今の時期はウイルス性胃腸炎でしょう。

 先日、大阪の海苔加工業者の従業員がノロにり患しているにもかかわらず素手で海苔を加工し、小学生1000人もノロによる胃腸炎を発症しました。
 ウイルスですので乾燥した劣悪環境でも生き残れるとは思っていましたが、まさか「刻み海苔」でも活き続けるとは思いませんでした。ということは食前に火を通さないモノはすべてノロに感染する可能性があるということですね。いやはや怖ろしい事件です。というかノロの性質なんでしょうけど。

 お気をつけください。


なんか変だな 東京マラソン その3

2017年03月03日 10時07分46秒 | 日記

 まあ感動ドラマ仕立てにしたのは、たぶん最初は放送作家か誰かが台本を書いたのかもしれない。そして台本通りにマラソンを走って、結局それが視聴率をあげるためのツールにされているならやっぱり変だなと思うのである。
 自分もかれこれ10回くらいフルマラソン走っているが、42.195kmはやはりつらいものであり、それに向けて日々練習も必要である。そして自分が頑張るのは人に感謝したいからでもなく感動を与えたいというものでもない。
 もし自分の気持ちを伝えるために走ると言うのなら、なんだかあざとい視聴率稼ぎの台本に乗せられたなと感じてしまう。東京マラソンのドラマは意図的に作るものではない。

 実はほとんど表面上に出てこない感動的なデータがある。そんなことTV番組では視聴率がとれないので報道すらしないが、過去第1回大会から心肺停止者はいるが全員救命して社会復帰をしているのである。
 死亡者0というのは世界に誇れる数字である。そしてそのために人を配置しAEDを配置し、救急搬送システムを構築している。
 これらを担う医療関係者の努力のほうが自分にとっては「あざとくなく」、これこそものすごく感動するものである。作られた医療体制であるが作られた台本ではないのだ。
 この死亡者0は作られたドラマなんかじゃない。

なんか変だな 東京マラソン その2

2017年03月02日 06時13分13秒 | 日記

 なんだか15~20年前ごろより「感動、ありがとう」などという変な言葉が出現してきた。その時から、なんで日本人はそんなにみんな揃って感動したがっているのかな?と不思議に思っていた。
 この言葉が出現して久しいが、最近では、応援してくれる人に対して感謝を公言し、そして応援する人がその頑張る姿を見て「感動した」と、両者がまるで予定調和のようにお互いの感動状態を確認しあって大団円になっている感じである。
 まあでも悪い話ではないのでここまでひねくれて考える必要もないのであるが、どうもなんだか「不自然さ」が否めないのである。
 でも何だかこの手を取り合ったような流れが気持ち悪いのである。もともと42.195kmは人に何かを伝えるツールではない。マラソン走るのは感動話を作るためにやるんじゃないだろうと言いたくなる。何かを伝えたいために走るということは一見motivation としては立派そうだが本末転倒であろう。
 自分が好きで走り、その走りを見て勝手に観客が感動するのは自然である。でも感動させたり何かを伝えたりするために走るというのは逆であり不自然だと思う。

なんか変だな 東京マラソン その1

2017年03月01日 05時29分14秒 | 日記
 日本テレビが放送しているがなんだか東京マラソンがおかしな台本に乗せられているような気がする。
 日本テレビで、この総集編やらニュース番組を見ているとなんだか、いつも出てくる言葉で「あなたは東京マラソンを走って何を伝えたいですか?」などとのインタビューを聞く。

 フルマラソンを走ることで何か人に伝えなくてはいけないのか?と思ってしまう。
 そして何だかみんな「自分の頑張る姿をみせてお世話になった人、応援してくれている人に感謝の気持ちを表したい」と異口同音の答えである。

 「応援ありがとう、最後まで頑張る」と応えれば、応援しているほうは「その頑張る姿が素晴らしい!感動、ありがとう!」などと両者が感動しあっている。なんかテレビ局の台本に乗せられてないかい?と不思議に感じる。