1963年公開の工藤栄一監督の『十三人の刺客』のリメイク版だというが、そのオリジナルはかすかに名前を知っているぐらいで、観たことはない。
とにかく最後の何十分かの斬って斬って斬りまくるシーンは壮絶で、かの「七人の侍」を凌駕しているかも知れない。
惜しむらくは、そのうち何人かのキャラクターの前半での描写がいささか希薄で、乱闘シーンのなかでは誰が誰だったのかよく分からないことである。
しかしすさまじい。最後にはどんな形であれ「正義」が勝つことが暗示されているので安心して観ていられるのだが、それでもその戦闘シーンはすごい。
豪華なキャスト陣だが、私が感情移入できたのは、討つ側の人物より、討たれる側の「殿」であった。彼は、徳川時代後半の太平の世にあって、武士という階級がそもそももっていた「殺すか殺されるか」という緊張感の喪失、あるいは、もはやそれを忌避するような時代に反逆する者として現れる。
そして、その地位を利用して、残忍にして悪逆非道の限りを尽くすのだが、それが稲垣吾郎の端正にしてスタティックな表情のままに行われるところにかえってその凄惨さが際立つ。
そこには時代を違えた者がもつシニカルなものが宿っていて、彼の非道は今風にいえば自ら選び取った「キャラ」であるかのように増幅され続ける。
ところで、それを討つ側、つまり一三人の刺客の側も(正確に言えば一人を除いて)、もはやその時代にそぐわぬ「侍の精神」をもった者たちで構成されている。
従ってその間の争いはその結語に観られるように、決して公にされるものではない。
いわば、太平の世の裏側でのアナクロティックな対決として、「忠臣蔵」のようなエピソードにすらならないままに葬られる事件なのである。
とはいえ、それは「ご政道」という表の世界を保持するための捨て石としての意味を持ってはいるのだが・・・。
私はこれを観ていて、なぜかあの三島由紀夫の市ヶ谷の乱を思い出していた。
この映画で、そうした状況をを超越しているのは木賀小弥太(伊勢谷友介演じる山の民)のみかも知れない。
彼のみが、武士という掟の外に、いや身分制度そのものの外に位置するからである。
とにかく最後の何十分かの斬って斬って斬りまくるシーンは壮絶で、かの「七人の侍」を凌駕しているかも知れない。
惜しむらくは、そのうち何人かのキャラクターの前半での描写がいささか希薄で、乱闘シーンのなかでは誰が誰だったのかよく分からないことである。
しかしすさまじい。最後にはどんな形であれ「正義」が勝つことが暗示されているので安心して観ていられるのだが、それでもその戦闘シーンはすごい。
豪華なキャスト陣だが、私が感情移入できたのは、討つ側の人物より、討たれる側の「殿」であった。彼は、徳川時代後半の太平の世にあって、武士という階級がそもそももっていた「殺すか殺されるか」という緊張感の喪失、あるいは、もはやそれを忌避するような時代に反逆する者として現れる。
そして、その地位を利用して、残忍にして悪逆非道の限りを尽くすのだが、それが稲垣吾郎の端正にしてスタティックな表情のままに行われるところにかえってその凄惨さが際立つ。
そこには時代を違えた者がもつシニカルなものが宿っていて、彼の非道は今風にいえば自ら選び取った「キャラ」であるかのように増幅され続ける。
ところで、それを討つ側、つまり一三人の刺客の側も(正確に言えば一人を除いて)、もはやその時代にそぐわぬ「侍の精神」をもった者たちで構成されている。
従ってその間の争いはその結語に観られるように、決して公にされるものではない。
いわば、太平の世の裏側でのアナクロティックな対決として、「忠臣蔵」のようなエピソードにすらならないままに葬られる事件なのである。
とはいえ、それは「ご政道」という表の世界を保持するための捨て石としての意味を持ってはいるのだが・・・。
私はこれを観ていて、なぜかあの三島由紀夫の市ヶ谷の乱を思い出していた。
この映画で、そうした状況をを超越しているのは木賀小弥太(伊勢谷友介演じる山の民)のみかも知れない。
彼のみが、武士という掟の外に、いや身分制度そのものの外に位置するからである。