もう一週間過ぎてしまったが、この14日、校下のサークルの人たちと舞鶴を訪れた。
舞鶴といえば私には特別の思い入れがある。1944年に満州はハルビン郊外へ兵士として出征してそこで敗戦を迎え、ソ連軍によってシベリアへ抑留され、そのまま生死すら不明だった父が、1948年、引揚船で帰ってきたのがこの舞鶴だった。
舞鶴からの電報を疎開先で受け取ってはじめてその帰還を知った。それから幾日か後、3日間、毎日夜中に疎開地近くの大垣駅に停車する引き上げ列車で帰ってくるというので、その3日間、毎夜、大垣駅で待機した。
一日目、姿は見えなかった。二日目、近くで再会を喜ぶ家族を見ながら目を見張ったがだめだった。三日目、何人かが降りてくるのに目を凝らした。・・・・最後の一人・・・・違う人だった。
母や母方の親族は皆うなだれた。考えてみたら、あの電報の名前は間違っていた。当時の電報事情からして、部分的な誤りだと思っていたが、電報そのものが間違いだったのか。
そのとき、諦めずプラットホームをみていて私が叫んだ。「アッ、誰か来るっ!」
それが父だった。父は、私たちの疎開先が駅の西方だったので、早く帰りたいあまり改札口のある東とは反対の方へ進み、ホームが途切れているのに気づき引き返してきたのだった。
停電が日常的にあった電気事情の悪い中、夜の駅のホームもまた暗いなかでの出来事だった。
それが父だった。父は、私たちの疎開先が駅の西方だったので、早く帰りたいあまり改札口のある東とは反対の方へ進み、ホームが途切れているのに気づき引き返してきたのだった。
停電が日常的にあった電気事情の悪い中、夜の駅のホームもまた暗いなかでの出来事だった。
舞鶴に話を戻そう。父が引き上げてきたその桟橋へ行きたかった。
しかしそこは、現在の舞鶴港や、海上自衛隊の基地となっている軍港からも随分離れた場所で、往時の桟橋ももうない(復旧版はあるみたい)ようなので、私一人のわがままでサークルの人全体を動かすのもと思って諦めた。
なお当日、舞鶴の海自軍港に停泊の戦艦の一般公開をしていて、周辺の駐車場はどこも入れず、そこから離れた市役所近くの赤レンガ倉庫群を見ることは出来た。
写真はその他いろいろ、舞鶴近辺で撮ったものである。
写真はその他いろいろ、舞鶴近辺で撮ったものである。