

<承前>前回は「情報公開・知る権利」などを振りかざしながらも、実際に情報を獲りに行かないため、これらが空疎な念仏に終わっているメディアの根本姿勢について書いた。
それは同時に、様々なリークがもはやマス・メディアにではなく、ネットを介して行われていることと連動している。
この点に付き、ネット上の友人から「毎日」の与良という論説副委員長が、なぜその流出先がネットであったのかを謙虚に受け止めているというご指摘があったので、それを参照してみた。
彼はいう。
「論点はさまざまあるが、もう一つ、私がこだわりたいのは、流出先がインターネットだった点だ。ネットとい う媒体が、これだけ政治を揺るがしたのは、日本では初めてだと思うからだ。」
「情報提供する側が、どこが最も『効果』が上がるかを考え、メディアを 選ぶようになっている気もする。」
これらはまったく正しいであろう。
しかし、問題はその後である。与良氏は続けていう。
「もし、映像が入ったDVDがテレビ局に送られてきたらどうだったかと考えてみる。映像は本物か、公務員の守秘義務違反に当たる可能性が高いビデオをテレビ放映するのは妥当か、あるいは日中関係はどうなるのか。多分テレビ局はためらったと思う。」
この「ためらい」はある意味では慎重な検討を意味するが、一つ間違うと情報を隠蔽することに手を貸すこととなる。いずれにしても私たちは、「公正中立」を自認するマス・メディアのフィルターを通じてしか情報を得られないということを意味している。
リークする人たちが慎重にマス・メディアを避けネットへと情報を流すのは、マス・メディアの規制を免れたナマの情報を提示したいためである。 海保の情報をリークしたひとは、情報の規制を自分の使命としているようなマス・メディアにではなく、ネットに載せて全く正解であったといえる。
与良氏が正直にいうように、もしこれをリークしたひとが、「毎日」を選んでいたとしたら、今もってその情報が私たちの元に届いてはいない可能性もあるわけだ。
与良氏の言説は一見、謙虚なようだが、どの情報をどのように公表するか、あるいはその効果をどう見積もるのを判定するのはわれわれであるというマス・メディアの傲慢さも垣間見させるものである。
メディアを訳せば「情報媒体」ということになろうか。私たちはともすればこの媒体そのものは中立であり、それが運ぶメッセージの内容こそが問題だと考えがちである。メディアに携わる人たちもそう思っているようだ。
いや、さらにそれに加えて、「よりよいメッセージを送る」とか、それをもって私たちを啓蒙しようとかいう付加価値の付与を自らの使命としている人もいるだろう。
一般に、こうしたひとは真面目なひとと思われがちだが、そこに一つの陥穽がある。私たちは常にこうした真面目なひとの主観やイデオロギーで濾過された情報をつかまされ、時としては、彼らによる叱責やお説教の対象にすらなる。
こうした、「正しい情報」による「啓蒙」というのはまさに産業社会でのメディアの姿なのかも知れない。この場合、既にメディアそのものがメッセージを内包しているのだが、日常的にそれに順化し、麻痺させられた私たちには、メディアそのものがもっているメッセージ性に気づくことが困難である。
これをマクルーハン(1911~80)は、ずばり、「メディアはメッセージである」といい当てた。
ようするに、メディアはメッセージを運ぶ中立的で透明な媒体などではなく、メディアそのものが既にしてメッセージだということだ。
後期産業社会のメディアとしてのネットは、これまでのメディアとはかなり性質を異とする。それがもたらす情報の堆積と分配は主観的位置づけや序列をほとんどもたない無政府的で雑然としたものとして投げ出されている。
例えば、何らかの情報をネットで検索した場合、それらは現行のメディアが行っている価値付けや序列(新聞でいうならば何面に載るか、見出しの大きさ、載る順序)を一切もたない雑然としたものとして提示される。
現行のメディアが最重要として位置づける情報も、没にして捨ててしまう情報も、等しく提示される。
だからこそリークされる情報は、ネットという新しいメディアを通じて、古いメディアの価値意識による取捨選択や規制を免れて、私たちの元へやってくることが出来る。
それがこの間の、流出や漏洩などが示す現実である。
流出や漏洩が組織的にどうかという問題は最初に述べたように別次元の問題である。組織の側はそれはそれで対処すればよい。
ここでいいたかったことは、この間のリークがネットという媒体を通じてのみ可能であったこと、そしてそれは、これまでの「理性の府」であったメディアが凋落してゆく兆しであること、そして私たちは、これまでとは全く異なる情報のありように立ち合っているのだということである。
もちろんネット社会を手放しで礼賛しているわけではないが、それが切り開く分野はその正否を含めて膨大だと思われる。それを恐れて予め行われる大規模な規制(典型的なものは中国政府によるそれ)や、個別的には今回のウィキリークス(Wikileaks)への国際的な規制や弾圧は、この新しいメディアの可能性をつぶそうとする守旧勢力よる抵抗として、これを許すわけにはゆかないと思う。