今日は長崎忌です。
原爆投下により、当時の長崎市民(約24万人)の半数以上が亡くなりました。
これはよく知られた事実ですが、最初の投下予定地は小倉市(現・北九州市)でした。
ところが、天候の不順や米軍内の連携の不備で、小倉市上空の一時間弱の旋回にもかかわらず、投下を果たすことはできず、第二の目的地・長崎に向かったのでした。

しかも、ここでも天候は悪く、投下目標を目視することはできませんでした。
このままでは、命令にない無線投下を行うか、あるいは帰途、太平洋上に投棄するしかない状況となりました。
その時です。雲の切れ目から一瞬、長崎の市街が見えたのです。
爆撃手・ビーハンは大声で叫びました。
「街が見える! 雲の切れ間に第2目標発見!」
それが長崎の運命を決したのでした。
もちろん、小倉に落ちれば良かったということではありません。
米軍にとってはどこであろうが、大勢の人が死にさえすればよかったのですから。

国民学校一年生だった私は、敵は卑劣にも特殊爆弾を使い始めたと聞かされました。
「どうもその特殊爆弾は光線爆弾らしい、だから防空壕へ逃げるときは白いものをはおった方がいい」
これが大人たちの一方の言い分でした。
「いいや、そんな白いものを身につけたら、敵の標的になるようなものだ」
これがもう一方の言い分です。
核兵器を前に、なんという幼稚な論争かと笑う人もいるでしょうね。
でもこれは、当時の人間にとっては、まさに命がけの論争だったのです。

日本という国が、すでに敗戦必至の状況であった1945(昭20)年のはじめに降伏を申し出ていたら、その後の沖縄、広島、長崎、そして国内の主要都市の爆撃、あるいは海外戦闘地点での玉砕などを含めて、100万人に近い人間の命を失うことなく済んだのにというのが、率直な感想です。

以下は、今年の8月4日に行われた第59回長崎原爆忌平和祈念俳句大会の優秀句です。
*一般の部
浦上のどこ曲っても八月九日 長崎市 木村宜子(70歳)
*高校の部
水道の蛇口上向く長崎忌 松山高校1年 右崎愛梨沙
*高校生以下の部
ひいばあちゃん今も苦しむ夏の傷 寺田壮志(13歳)
原爆投下により、当時の長崎市民(約24万人)の半数以上が亡くなりました。
これはよく知られた事実ですが、最初の投下予定地は小倉市(現・北九州市)でした。
ところが、天候の不順や米軍内の連携の不備で、小倉市上空の一時間弱の旋回にもかかわらず、投下を果たすことはできず、第二の目的地・長崎に向かったのでした。

しかも、ここでも天候は悪く、投下目標を目視することはできませんでした。
このままでは、命令にない無線投下を行うか、あるいは帰途、太平洋上に投棄するしかない状況となりました。
その時です。雲の切れ目から一瞬、長崎の市街が見えたのです。
爆撃手・ビーハンは大声で叫びました。
「街が見える! 雲の切れ間に第2目標発見!」
それが長崎の運命を決したのでした。
もちろん、小倉に落ちれば良かったということではありません。
米軍にとってはどこであろうが、大勢の人が死にさえすればよかったのですから。

国民学校一年生だった私は、敵は卑劣にも特殊爆弾を使い始めたと聞かされました。
「どうもその特殊爆弾は光線爆弾らしい、だから防空壕へ逃げるときは白いものをはおった方がいい」
これが大人たちの一方の言い分でした。
「いいや、そんな白いものを身につけたら、敵の標的になるようなものだ」
これがもう一方の言い分です。
核兵器を前に、なんという幼稚な論争かと笑う人もいるでしょうね。
でもこれは、当時の人間にとっては、まさに命がけの論争だったのです。

日本という国が、すでに敗戦必至の状況であった1945(昭20)年のはじめに降伏を申し出ていたら、その後の沖縄、広島、長崎、そして国内の主要都市の爆撃、あるいは海外戦闘地点での玉砕などを含めて、100万人に近い人間の命を失うことなく済んだのにというのが、率直な感想です。

以下は、今年の8月4日に行われた第59回長崎原爆忌平和祈念俳句大会の優秀句です。
*一般の部
浦上のどこ曲っても八月九日 長崎市 木村宜子(70歳)
*高校の部
水道の蛇口上向く長崎忌 松山高校1年 右崎愛梨沙
*高校生以下の部
ひいばあちゃん今も苦しむ夏の傷 寺田壮志(13歳)