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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

100万人の命が救えたかも  長崎忌に寄せて

2012-08-09 01:59:13 | 歴史を考える
 今日は長崎忌です。
 原爆投下により、当時の長崎市民(約24万人)の半数以上が亡くなりました。

 これはよく知られた事実ですが、最初の投下予定地は小倉市(現・北九州市)でした。
 ところが、天候の不順や米軍内の連携の不備で、小倉市上空の一時間弱の旋回にもかかわらず、投下を果たすことはできず、第二の目的地・長崎に向かったのでした。

          

 しかも、ここでも天候は悪く、投下目標を目視することはできませんでした。
 このままでは、命令にない無線投下を行うか、あるいは帰途、太平洋上に投棄するしかない状況となりました。

 その時です。雲の切れ目から一瞬、長崎の市街が見えたのです。
 爆撃手・ビーハンは大声で叫びました。
 「街が見える! 雲の切れ間に第2目標発見!」
 それが長崎の運命を決したのでした。

 もちろん、小倉に落ちれば良かったということではありません。
 米軍にとってはどこであろうが、大勢の人が死にさえすればよかったのですから。

          

 国民学校一年生だった私は、敵は卑劣にも特殊爆弾を使い始めたと聞かされました。
 「どうもその特殊爆弾は光線爆弾らしい、だから防空壕へ逃げるときは白いものをはおった方がいい」
 これが大人たちの一方の言い分でした。
 「いいや、そんな白いものを身につけたら、敵の標的になるようなものだ」
 これがもう一方の言い分です。

 核兵器を前に、なんという幼稚な論争かと笑う人もいるでしょうね。
 でもこれは、当時の人間にとっては、まさに命がけの論争だったのです。

          

 日本という国が、すでに敗戦必至の状況であった1945(昭20)年のはじめに降伏を申し出ていたら、その後の沖縄、広島、長崎、そして国内の主要都市の爆撃、あるいは海外戦闘地点での玉砕などを含めて、100万人に近い人間の命を失うことなく済んだのにというのが、率直な感想です。

             

 以下は、今年の8月4日に行われた第59回長崎原爆忌平和祈念俳句大会の優秀句です。
 
   一般の部
     浦上のどこ曲っても八月九日     長崎市 木村宜子(70歳)
   高校の部
     水道の蛇口上向く長崎忌       松山高校1年 右崎愛梨沙  
   高校生以下の部
     ひいばあちゃん今も苦しむ夏の傷   寺田壮志(13歳)
 

コメント
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