今年、改まってしたことは玄関の表札を換えたことだろう。
実はこの表札、もう10年以上前から私の机の引き出しのなかで、包装紙にくるまれたまま眠っていたものである。
それをあえて今年、掛け替えたのは前のものが古びてきて見えにくくなったせいだけではない。
実はこの表札、3年半ほど前になくなった母が、それに先立つ何年も前に遺言を残し、自分が住んでいる家を私に譲る、ついては新しい表札がいるだろうといってわざわざ誂えてくれたものである。
はしょっていうならば、結局、私はその家を相続しなかった。
「きょうだい」のためにあえていうが、遺産を巡る係争があって私が敗れたわけではない。
むしろ、私のわがままで母の遺志に背いたのは申し訳なかったと思っている。
そんなわけでその表札が手元に残ったのだが、しまっておいてもしょうがないので、三周忌があけた新年、今の住まいに取り付けることにした。
包装を解くと、今なお新しい木の香りが匂い立った。
材木屋の息子だから、木の匂いには敏感なのだ。
取り替えると、何でもないあばら屋のそこのみが少し輝いていて、それを見上げる私もなんだか面はゆい気分になった。
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前回の記事では、アウトドアの凧揚げのことを書いたが、私の子供の頃の室内での遊びはカルタ取りだった。カルタといってもいろはカルタではない。百人一首だった。
若い人にはわからないかもしれないが、三十一文字を読み手が読み上げるのに従って、ひらがなで書かれた下の句の札をとるのである。
読み手のメロディはというと、宮中でまもなく行われるであろう歌会初めのそれとほぼ同様だった。ただし、あんなに悠長にノンベンダラリンとではゲームとしての興がそがれるので、もっとアップテンポだった。
子供のくせにというなかれだ。確かに最初はほとんど意味もわからずにただ札をとっていたのだが、その段では、私の父母のようなれっきとした平民の大人たちも、さほど意味がわかっていたわけではなかったのだからフィフティ・フィフティだった。
それに意味がわかったからといって早くとれるわけではない。
ただし、暗記力は要求された。
「秋の田の」と読み手が読んだだけで、「わがころもでは」をとらなければならなかったからだ。
落とし穴もあった。
いろはカルタと違って、100枚のとり札のそれぞれの最初の文字が違っているわけではなかった。
上に見た、「わがころもで」にも二通りあって、「春の野に」も、取り札の方は「わがころもでに」で始まるのだ。
前者は、「わがころもではつゆにぬれつつ」であるのに対し、後者は「わがころもでにゆきはふりつつ」なのだから紛らわしい。
間違えると、お手つきという罰則があった。
ついでながら、「わが」で始まる取り札はほかにもこんなにあった。
わが身世にふるながめせしまに
わが身ひとつの秋にはあらねど
わが立つ杣にすみ染の袖
「わが」ではないが、「わ」で始まるのにはこんな札もあった。
われても末に逢はむとぞ思ふ
なんだか話が逸れたようだが、ここから母の思い出につながる。
これは前にも書いたが、こうしたカルタ取りの際、母が絶対ほかの人にはとらせない札があった。
それは「久方の光のどけき春の日に しづ心なく花の散るらむ 」(紀友則)で、その理由は単純であった。この取り札の冒頭の「しづ」が自分の名前だったからである(戸籍上はシズ)。
これをひとにとられたりすると、身をよじらんばかりに悔しがった。
父が読み手になる場合が多かったが、この歌を読む前に「エヘン」と咳払いをするので、母は読み始めと同時にもう札をとっていた。麗しい(?)夫婦愛であった。
正月には必ず実家に顔を出したが、いつの間にかカルタをとる風習はなくなってしまった。
父母が老齢化したからであろうか、それともその遊びそのものが古びてしまったからだろうか。
たぶんその両方であろう。
今読んでいる本(『『国語』という思想』)には日本においての《母性概念》は《故郷》のそれとともに「想像の共同体」を支えるものだったと書いてある。
確かに、万世一系の父性概念が表側だとすれば、それに張り付くように共同体への包摂概念としての「母性」が作用してきた。「軍国の母」や「岸壁の母」はそのように機能してきた。
その名残りなのか、近年の国語教科書においても登場回数が圧倒的に多いのは父ではなくて母だと石原千秋も指摘している。(『国語教科書の思想』『国語教科書の中の「日本」』)
私は十分それを自覚しながらもやはり母を偲びたいと思う。
新しい表札に母が込めてくれた思いを遺産として受け止めながら。
実はこの表札、もう10年以上前から私の机の引き出しのなかで、包装紙にくるまれたまま眠っていたものである。
それをあえて今年、掛け替えたのは前のものが古びてきて見えにくくなったせいだけではない。
実はこの表札、3年半ほど前になくなった母が、それに先立つ何年も前に遺言を残し、自分が住んでいる家を私に譲る、ついては新しい表札がいるだろうといってわざわざ誂えてくれたものである。
はしょっていうならば、結局、私はその家を相続しなかった。
「きょうだい」のためにあえていうが、遺産を巡る係争があって私が敗れたわけではない。
むしろ、私のわがままで母の遺志に背いたのは申し訳なかったと思っている。
そんなわけでその表札が手元に残ったのだが、しまっておいてもしょうがないので、三周忌があけた新年、今の住まいに取り付けることにした。
包装を解くと、今なお新しい木の香りが匂い立った。
材木屋の息子だから、木の匂いには敏感なのだ。
取り替えると、何でもないあばら屋のそこのみが少し輝いていて、それを見上げる私もなんだか面はゆい気分になった。
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前回の記事では、アウトドアの凧揚げのことを書いたが、私の子供の頃の室内での遊びはカルタ取りだった。カルタといってもいろはカルタではない。百人一首だった。
若い人にはわからないかもしれないが、三十一文字を読み手が読み上げるのに従って、ひらがなで書かれた下の句の札をとるのである。
読み手のメロディはというと、宮中でまもなく行われるであろう歌会初めのそれとほぼ同様だった。ただし、あんなに悠長にノンベンダラリンとではゲームとしての興がそがれるので、もっとアップテンポだった。
子供のくせにというなかれだ。確かに最初はほとんど意味もわからずにただ札をとっていたのだが、その段では、私の父母のようなれっきとした平民の大人たちも、さほど意味がわかっていたわけではなかったのだからフィフティ・フィフティだった。
それに意味がわかったからといって早くとれるわけではない。
ただし、暗記力は要求された。
「秋の田の」と読み手が読んだだけで、「わがころもでは」をとらなければならなかったからだ。
落とし穴もあった。
いろはカルタと違って、100枚のとり札のそれぞれの最初の文字が違っているわけではなかった。
上に見た、「わがころもで」にも二通りあって、「春の野に」も、取り札の方は「わがころもでに」で始まるのだ。
前者は、「わがころもではつゆにぬれつつ」であるのに対し、後者は「わがころもでにゆきはふりつつ」なのだから紛らわしい。
間違えると、お手つきという罰則があった。
ついでながら、「わが」で始まる取り札はほかにもこんなにあった。
わが身世にふるながめせしまに
わが身ひとつの秋にはあらねど
わが立つ杣にすみ染の袖
「わが」ではないが、「わ」で始まるのにはこんな札もあった。
われても末に逢はむとぞ思ふ
なんだか話が逸れたようだが、ここから母の思い出につながる。
これは前にも書いたが、こうしたカルタ取りの際、母が絶対ほかの人にはとらせない札があった。
それは「久方の光のどけき春の日に しづ心なく花の散るらむ 」(紀友則)で、その理由は単純であった。この取り札の冒頭の「しづ」が自分の名前だったからである(戸籍上はシズ)。
これをひとにとられたりすると、身をよじらんばかりに悔しがった。
父が読み手になる場合が多かったが、この歌を読む前に「エヘン」と咳払いをするので、母は読み始めと同時にもう札をとっていた。麗しい(?)夫婦愛であった。
正月には必ず実家に顔を出したが、いつの間にかカルタをとる風習はなくなってしまった。
父母が老齢化したからであろうか、それともその遊びそのものが古びてしまったからだろうか。
たぶんその両方であろう。
今読んでいる本(『『国語』という思想』)には日本においての《母性概念》は《故郷》のそれとともに「想像の共同体」を支えるものだったと書いてある。
確かに、万世一系の父性概念が表側だとすれば、それに張り付くように共同体への包摂概念としての「母性」が作用してきた。「軍国の母」や「岸壁の母」はそのように機能してきた。
その名残りなのか、近年の国語教科書においても登場回数が圧倒的に多いのは父ではなくて母だと石原千秋も指摘している。(『国語教科書の思想』『国語教科書の中の「日本」』)
私は十分それを自覚しながらもやはり母を偲びたいと思う。
新しい表札に母が込めてくれた思いを遺産として受け止めながら。