《まえがきなんです》
縁あって日本語の勉強をしているんですが、この言葉、一筋縄ではゆかないんです。なんとなく単一で当たり前のように使っているんですが、話し言葉だけでも、標準語から方言、女言葉から男言葉、それに社会的な階層などによってそれぞれ違ったことばを話しているんです。
書き言葉の方もそうなんです。かつては漢文訓読体の候文や、やまと言葉の擬古文などがあったんですが、現在ではもっと平易な書き方をしているんですね。
しかし、その現代風の書き方にも、「である」調や、「です、ます」調などがあるんですが、ここで私が試みたのは、「んです」調なんです。もちろんこれは「のです」の変形なんですが、しかし、「のです」という表現とはまた違った味わいを持っているんではないかと思うんです。
《ここから本文なんです》
こんな私でも時折はこの街を出て、ほかの街へ行く機会があるんです。
前よりウンと回数が減りましたが、それでも月に何回かはでかけることがあるんです。そんな時、雨降り以外は自転車で駅まで行くことにしてるんです。
距離は2キロほどで、大したことはないんですが、今の時期、北風に逆らって行くもんですから、けっこうきつい日もあるんです。それでも、老いゆく肉体への刺激になるんではと思い、ともすれば押し戻されそうになるんですが、懸命にペダルを踏んで進むんです。
前にも書いたんですが、私の家から駅までの間には、かつては5つの街頭時計があったんです。それらは、私の自転車運行のチェックポイントのような役割を果たしていたんです。
これについては前にもここに書いたことがあったんですが、それらの時計が一つ減り、二つ減りしていったんです。そしてとうとう、今年になって、ついにひとつになってしまったんです。
つい最近なくなったのは、銀行の側壁に取り付けられたもので、駅までの最終チェックポイントだったんですが、それがなくなってしまったんです。これだけは残るだろうと思ったんですが、その判断が誤っていたんですね。
なぜ最終チェックポイントだったかというと、ここで、少しピッチを上げれば〇〇分の電車に間に合うんだとか、あるいはもう間に合わないから無理をしない方がいいんだなどと判断をしていたからなんです。
これまでなくなったのは、建物そのものがなくなったんだとか、その営業実体がなくなったからとかだったんで、銀行だけは大丈夫だと思っていたんですが、その思惑が見事外れたんです。
最後に残ったのは一箇所、私の家を出てから、最初の大手の酒屋さんの出荷センターのようなところのものなんですが、これも前に書いたことがあるんですが、ここの時計はいつも数分進んだ状態にあるんです。
最初は管理不行き届きかなと思ったんですが、そうではなくて、配達業務などをする従業員さんを急かせるためにわざわざ進めてあるんだそうです。ようするに、管理不行き届きでは決してないんであって、そういう管理方式なんですね。
で、結論としては、家を出てすぐのところで、しかもその時計がいつも進められていたんでは、チェックポイントの役割を果たせないということなんです。
銀行は大丈夫だと思っていたんですが、そこの時計も撤去されたんで、街頭時計の減少は私が思っていたように、その設置する企業や建造物の問題ではないんだということに思い当たったんです。
ようするに、かつてはとても便利だったんですが、今や車には時計がつき、歩行者は携帯を持つようになったんで、それらのサービス機能はもはや殆ど顧みられなくなったんですね。
しかし、しかしです。私のような自転車ドライバーに取っては少々事情が違うんです。
自転車を運行しながら、携帯などを見ることはとても危険なことなんです。
もっとも、自転車を漕ぎながら携帯を見ている不届き者もいて、かつて歩行していた私にぶつかってきたやつもいるんです。
幸い、私が身をかわしあやうく横倒しになるところをこらえたんで、軽い接触だけで大事には至らなかったんですが、さすがの私も腹に据えかねたんで、「おまえなぁ、片目で携帯を見てもう一方で前を見ることなんかできないんだから、そんな危ない運転をしてはいけないんだ」といってやったんです。
話が横道にそれたんですが、ようするに、駅までの行程でこれまで5箇所にあった街頭時計が一箇所になってしまったということなんです。
ならば致し方ないということなんで、私なりの対策も立てたんです。
それはというと、前の列車に乗れるんだとか後のになるんだとかということなど全く考えないで、向かい風の状況、信号のタイミングなどのあるがままに身を任せ、小賢しく自己管理などしないということなんです。
それによって所定の時間に遅れたってなんの大したこともないんです。
私自身の生き様が、もう世間の標準からはすっかり遅れてしまっているんですから、いまさらジタバタしてもどうってことはないんです。
こういうのって悟りっていうんでしょうか、それとも居直りっていうんでしょうか。
私にとってはどっちでもいいんですが。
*以上の文章の中で「んです」、ないしはそれに類する表記を70箇所以上入れてみました。
縁あって日本語の勉強をしているんですが、この言葉、一筋縄ではゆかないんです。なんとなく単一で当たり前のように使っているんですが、話し言葉だけでも、標準語から方言、女言葉から男言葉、それに社会的な階層などによってそれぞれ違ったことばを話しているんです。
書き言葉の方もそうなんです。かつては漢文訓読体の候文や、やまと言葉の擬古文などがあったんですが、現在ではもっと平易な書き方をしているんですね。
しかし、その現代風の書き方にも、「である」調や、「です、ます」調などがあるんですが、ここで私が試みたのは、「んです」調なんです。もちろんこれは「のです」の変形なんですが、しかし、「のです」という表現とはまた違った味わいを持っているんではないかと思うんです。
《ここから本文なんです》
こんな私でも時折はこの街を出て、ほかの街へ行く機会があるんです。
前よりウンと回数が減りましたが、それでも月に何回かはでかけることがあるんです。そんな時、雨降り以外は自転車で駅まで行くことにしてるんです。
距離は2キロほどで、大したことはないんですが、今の時期、北風に逆らって行くもんですから、けっこうきつい日もあるんです。それでも、老いゆく肉体への刺激になるんではと思い、ともすれば押し戻されそうになるんですが、懸命にペダルを踏んで進むんです。
前にも書いたんですが、私の家から駅までの間には、かつては5つの街頭時計があったんです。それらは、私の自転車運行のチェックポイントのような役割を果たしていたんです。
これについては前にもここに書いたことがあったんですが、それらの時計が一つ減り、二つ減りしていったんです。そしてとうとう、今年になって、ついにひとつになってしまったんです。
つい最近なくなったのは、銀行の側壁に取り付けられたもので、駅までの最終チェックポイントだったんですが、それがなくなってしまったんです。これだけは残るだろうと思ったんですが、その判断が誤っていたんですね。
なぜ最終チェックポイントだったかというと、ここで、少しピッチを上げれば〇〇分の電車に間に合うんだとか、あるいはもう間に合わないから無理をしない方がいいんだなどと判断をしていたからなんです。
これまでなくなったのは、建物そのものがなくなったんだとか、その営業実体がなくなったからとかだったんで、銀行だけは大丈夫だと思っていたんですが、その思惑が見事外れたんです。
最後に残ったのは一箇所、私の家を出てから、最初の大手の酒屋さんの出荷センターのようなところのものなんですが、これも前に書いたことがあるんですが、ここの時計はいつも数分進んだ状態にあるんです。
最初は管理不行き届きかなと思ったんですが、そうではなくて、配達業務などをする従業員さんを急かせるためにわざわざ進めてあるんだそうです。ようするに、管理不行き届きでは決してないんであって、そういう管理方式なんですね。
で、結論としては、家を出てすぐのところで、しかもその時計がいつも進められていたんでは、チェックポイントの役割を果たせないということなんです。
銀行は大丈夫だと思っていたんですが、そこの時計も撤去されたんで、街頭時計の減少は私が思っていたように、その設置する企業や建造物の問題ではないんだということに思い当たったんです。
ようするに、かつてはとても便利だったんですが、今や車には時計がつき、歩行者は携帯を持つようになったんで、それらのサービス機能はもはや殆ど顧みられなくなったんですね。
しかし、しかしです。私のような自転車ドライバーに取っては少々事情が違うんです。
自転車を運行しながら、携帯などを見ることはとても危険なことなんです。
もっとも、自転車を漕ぎながら携帯を見ている不届き者もいて、かつて歩行していた私にぶつかってきたやつもいるんです。
幸い、私が身をかわしあやうく横倒しになるところをこらえたんで、軽い接触だけで大事には至らなかったんですが、さすがの私も腹に据えかねたんで、「おまえなぁ、片目で携帯を見てもう一方で前を見ることなんかできないんだから、そんな危ない運転をしてはいけないんだ」といってやったんです。
話が横道にそれたんですが、ようするに、駅までの行程でこれまで5箇所にあった街頭時計が一箇所になってしまったということなんです。
ならば致し方ないということなんで、私なりの対策も立てたんです。
それはというと、前の列車に乗れるんだとか後のになるんだとかということなど全く考えないで、向かい風の状況、信号のタイミングなどのあるがままに身を任せ、小賢しく自己管理などしないということなんです。
それによって所定の時間に遅れたってなんの大したこともないんです。
私自身の生き様が、もう世間の標準からはすっかり遅れてしまっているんですから、いまさらジタバタしてもどうってことはないんです。
こういうのって悟りっていうんでしょうか、それとも居直りっていうんでしょうか。
私にとってはどっちでもいいんですが。
*以上の文章の中で「んです」、ないしはそれに類する表記を70箇所以上入れてみました。