ものごころがついたのが同時に戦争のまっただ中だったのですが、そしてその時流に乗っていっぱしの軍国幼年を気取っていたのは前回書いたとおりです。しかし、正直にいって戦争はどこか遠い所で行われているという実感しかありませんでした。
新聞はひらがなしか読めませんでしたが、ラジオの大本営発表の放送はしばしば聴きました。勇ましい行進曲風のイントロで始まるそれらの放送のほとんどは、我が帝国陸海軍の華々しい戦果を伝えるものであり、敵に与えたその損害の大きさを伝えたあと、「なお、当方の損害は軽微なり」で終わるのが常でした。?
この常套句は子供にも覚えやすく、戦争ごっこやチャンバラごっこでやられても、「当方の損害は軽微だ」というのが流行りでした。
しかし、この大本営発表が全くの虚偽であり、とくに敗戦直前のそれらは、勝敗そのものが全く逆であったことは敗戦後になってから詳らかにされました。そんな報道しかありませんでしたから、私たち子供は当然として、大人たちさえも日本が勝ち続けていると思っていた人たちがほとんどで、敗戦の玉音放送を聴いても、にわかには信じがたいものがあったのです。
報道が、国家権力の一元的支配を受けて、検閲や統制の中で都合のいい報道しかしないといって北朝鮮や中国を嘲笑する人たちがいますが、それと同じ事が戦時中の日本でも行われていたのです。
もちろんこうした統制は報道にかぎらず、思想統制などによるイデオロギー支配にも及ぶもので、戦時中に流布された大東亜共栄圏や八紘一宇の忌まわしいイデオロギーを再び拾い上げて今日の現状に適応しようというのがいわゆる歴史修正主義といわれるものなのです。
彼らによれば、戦時中にあった禍々しい出来事はなかったことにされたり、日本民族の優秀性を示すものとして美化されたりさえするのです。
本町橋 ここで大陸へ征く父を見送った
ちょっと話が抽象的になりました。
どこか遠いところで行われていて、しかも連戦連勝であったはずの戦争が、ダイレクトに私の家族を直撃したのは1944(昭和19)年のことでした。
私は6歳、父は36歳だったのですが、その父のところへ召集令状(いわゆる赤紙)が来たのです。プロ野球の選手ではありませんが、30代も後半にさしかかればもうそんなものはこないだろういうのが一般的だったにもかかわらず、それが来たのです。
大本営発表の華やかさの影で、無謀な作戦と、死して虜囚の辱めを受けるなかれ(捕虜になるくらいなら死ね)で多くの若者を死地に追いやってしまった結果、絶対的な兵員数が枯渇してきたのでしょう。
そういえばその頃、あちこちで「名誉の戦死」で遺骨が帰ってきたという話を聞くようになりました。
父は、尋常高等小学校を卒業した15歳の折に、柳行李ひとつを背負い、雪深い福井県の山村から油坂峠を越えて、岐阜の材木屋に丁稚奉公に入ったひとです。そこをまじめに勤めあげて、独立を許され、借家借地ながら土場付きの材木商を開店した途端の戦争でした。
もう商売どころではありません。
赤紙でとられる前に、すでに徴用で各務ヶ原の飛行機工場にとられていました。そんなことの詳細を知らない私は、徴用先の面会日に、母となけなしの材料で作った弁当を持って面会に行くのが嬉しくてたまらなかったのでした。
明治44年の建造
父は名古屋の六連隊に入営しました。
また面会にゆけばいいやぐらいに思っていたところにとんでもない知らせが、しかも極秘で入りました。実はこの六連隊には母の従兄弟が将校でいたのですが、彼から、父はすぐに満州に送られるからすぐに面会に来ないともう逢えなくなるかもしれないといってきたのです。
母と私と父の父、つまり祖父との三人で、とるものもとりあえず駆けつけました。
そして、その従兄弟の将校の計らいで特別の部屋で面会が許されました。
夏の暑い日でしたが、将校の客ということで冷たい砂糖水が出されました。
もう砂糖はめったにお目にかかれない貴重品でしたから、父とはもう逢えなくなるかもしれないという瀬戸際にもかかわらず、「世の中にこんなうまいものがあったのか」と私は貪り飲んだのでした。
六連隊は名古屋城址うちにあったのですが、出発はその日の夜半で、そこから名古屋駅まで行進して征くというので、私達はそれを見送ることとしました。行進は、六連隊のある旧二の丸を出て江戸時代の名古屋のメインストリート(名古屋城と熱田神宮を結ぶ)本町通りを進むため、名古屋城の外堀に架かる本町橋を通るとのことで、そこに陣取ることとしました。
街灯などというものはむろん点いてはおらず、それどころか灯火管制で街なかとはとても思えない怖いくらいの暗闇が支配していました。?しかし、回りにかすかに人々の気配がします。闇を透かして見ると、私たち以外に何家族かが立ちつくしています。軍規が厳しい中でしたが、私たちと同様、何らかの形で情報を得た人たちが戦地へ旅立つ兵士を見送りに来ていたのです。
何時間待ったでしょうか。やがて、ザッツ、ザッツ、ザッツと地を踏む音がして、黒々とした人影の集団が現れました。彼らがいかに規則正しく行進しているかは、地を踏む音と、黒い陰の固まりが一定のリズムをもって揺れながら闇を押し退けて進む様子で分かりました。?幼い私にとってはそれは黒い巨大な固まりでした。行進の音に混じって時折聞こえる金属の擦れ合うような音は、彼らが携帯している武器などによるものだったのでしょう。
?
角灯は当時もあったがもちろん灯は入っていなかった
怖かったのです。幼い私にはその不気味な黒い集団がこの空間を圧倒しきっている様子が怖かったのです。そこには、私が絵本で見ていた、軍艦の舳先で手旗信号を送る水兵さんの輝く顔つきや、背筋をぴんと伸ばして騎乗する陸軍将校の凛々しさとは全く違う「たたかふ兵隊」の汗のにおいがする厳しさ、おどろおどろしさがありました。
必死で父を捜しました。しかし、灯りひとつないところでそれは不可能でした。?母や祖父もそうだったのでしょう。そこで祖父が、タバコ用のマッチをとりだし、それに火を点じると、私たちの顔の前にかざしました。?いいアイディアでした。父が見つからないなら、せめて自分たちの顔を見せてやろうとする必死の思いつきだったと思います。
しかし、しかしです。?
「誰だっ!灯りなど灯したやつはっ!」?
という大音声の叱責とともに、たぶん、隊列の横を歩いていた指揮官の一人と思われる人影ががとんできたのです。
祖父は慌ててマッチを落とし、踏んづけました。?指揮官らしい男は、私たちの方を凝視しているようでしたが、やがて隊列に戻ってゆき、事なきを得ました。?これらは全て闇の中の一瞬の出来事でしたが、祖父が手放したマッチの落下がなぜかゆっくりだったような気がするのです。
?
こうして黒い集団は通り過ぎました。その数が何人だったのかもよく分かりません。?「後を追ってはならない」と厳しくいわれていましたので、私たちは岐阜へ帰るべく別の道筋を通って名古屋駅に着きました。?しかし、一縷の期待にもかかわらず、名古屋駅には兵士たちの姿はありませんでした。?きっと、どこか別の通路からホームにあがり、専用列車でどこかの軍港へ向かったのでしょう。
橋から西の堀 昼なお鬱蒼とした感がある
それから何十年経った1990年のことです。黒澤 明監督の当時の新作『夢』という映画を観ました。?やはり大家になると晩年には説教くさくなるのかなぁ、などと生意気な感想をもって観ていたときでした。そのオムニバス映画の第4話に至って、私の全身を電流か駆け抜けるようなシーンと遭遇したのでした。
私はどんな映画でも、割合、冷静に観る方です。しかし、このときは、「あっ、それって、あのときの」と思わず叫びそうになったのです。?既視感(デジャヴ)が強烈に私を襲いました。?1944(昭19)年のあの夏の夜、本町橋の上で、私はまちがいなくそれを経験したのです。
映画の第4話は、「トンネル」と題され、復員兵がトンネルにさしかかると、戦死した兵士たちが隊列を組み、まさにザッツ、ザッツと軍靴の音を響かせて立ち現れるのです。?これこそ、幼い私が本町橋の上で「経験した」光景でした。敢えて「見た」とは言いません。なぜなら、本町橋はもっと暗く、話を交わすいとまなどもなく、ただ黒い固まりが動いていったのみですから。にもかかわらず、兵士たちはあのように、本町橋の上を進んでいったのでした。しかも、それらのうち何人かはふたたびこの国の土地を踏むことがなかったのです。? ?
1944年の話はまだまだあるのですが、十分に長くなりました。また後編はいつか書きましょう。
新聞はひらがなしか読めませんでしたが、ラジオの大本営発表の放送はしばしば聴きました。勇ましい行進曲風のイントロで始まるそれらの放送のほとんどは、我が帝国陸海軍の華々しい戦果を伝えるものであり、敵に与えたその損害の大きさを伝えたあと、「なお、当方の損害は軽微なり」で終わるのが常でした。?
この常套句は子供にも覚えやすく、戦争ごっこやチャンバラごっこでやられても、「当方の損害は軽微だ」というのが流行りでした。
しかし、この大本営発表が全くの虚偽であり、とくに敗戦直前のそれらは、勝敗そのものが全く逆であったことは敗戦後になってから詳らかにされました。そんな報道しかありませんでしたから、私たち子供は当然として、大人たちさえも日本が勝ち続けていると思っていた人たちがほとんどで、敗戦の玉音放送を聴いても、にわかには信じがたいものがあったのです。
報道が、国家権力の一元的支配を受けて、検閲や統制の中で都合のいい報道しかしないといって北朝鮮や中国を嘲笑する人たちがいますが、それと同じ事が戦時中の日本でも行われていたのです。
もちろんこうした統制は報道にかぎらず、思想統制などによるイデオロギー支配にも及ぶもので、戦時中に流布された大東亜共栄圏や八紘一宇の忌まわしいイデオロギーを再び拾い上げて今日の現状に適応しようというのがいわゆる歴史修正主義といわれるものなのです。
彼らによれば、戦時中にあった禍々しい出来事はなかったことにされたり、日本民族の優秀性を示すものとして美化されたりさえするのです。
本町橋 ここで大陸へ征く父を見送った
ちょっと話が抽象的になりました。
どこか遠いところで行われていて、しかも連戦連勝であったはずの戦争が、ダイレクトに私の家族を直撃したのは1944(昭和19)年のことでした。
私は6歳、父は36歳だったのですが、その父のところへ召集令状(いわゆる赤紙)が来たのです。プロ野球の選手ではありませんが、30代も後半にさしかかればもうそんなものはこないだろういうのが一般的だったにもかかわらず、それが来たのです。
大本営発表の華やかさの影で、無謀な作戦と、死して虜囚の辱めを受けるなかれ(捕虜になるくらいなら死ね)で多くの若者を死地に追いやってしまった結果、絶対的な兵員数が枯渇してきたのでしょう。
そういえばその頃、あちこちで「名誉の戦死」で遺骨が帰ってきたという話を聞くようになりました。
父は、尋常高等小学校を卒業した15歳の折に、柳行李ひとつを背負い、雪深い福井県の山村から油坂峠を越えて、岐阜の材木屋に丁稚奉公に入ったひとです。そこをまじめに勤めあげて、独立を許され、借家借地ながら土場付きの材木商を開店した途端の戦争でした。
もう商売どころではありません。
赤紙でとられる前に、すでに徴用で各務ヶ原の飛行機工場にとられていました。そんなことの詳細を知らない私は、徴用先の面会日に、母となけなしの材料で作った弁当を持って面会に行くのが嬉しくてたまらなかったのでした。
明治44年の建造
父は名古屋の六連隊に入営しました。
また面会にゆけばいいやぐらいに思っていたところにとんでもない知らせが、しかも極秘で入りました。実はこの六連隊には母の従兄弟が将校でいたのですが、彼から、父はすぐに満州に送られるからすぐに面会に来ないともう逢えなくなるかもしれないといってきたのです。
母と私と父の父、つまり祖父との三人で、とるものもとりあえず駆けつけました。
そして、その従兄弟の将校の計らいで特別の部屋で面会が許されました。
夏の暑い日でしたが、将校の客ということで冷たい砂糖水が出されました。
もう砂糖はめったにお目にかかれない貴重品でしたから、父とはもう逢えなくなるかもしれないという瀬戸際にもかかわらず、「世の中にこんなうまいものがあったのか」と私は貪り飲んだのでした。
六連隊は名古屋城址うちにあったのですが、出発はその日の夜半で、そこから名古屋駅まで行進して征くというので、私達はそれを見送ることとしました。行進は、六連隊のある旧二の丸を出て江戸時代の名古屋のメインストリート(名古屋城と熱田神宮を結ぶ)本町通りを進むため、名古屋城の外堀に架かる本町橋を通るとのことで、そこに陣取ることとしました。
街灯などというものはむろん点いてはおらず、それどころか灯火管制で街なかとはとても思えない怖いくらいの暗闇が支配していました。?しかし、回りにかすかに人々の気配がします。闇を透かして見ると、私たち以外に何家族かが立ちつくしています。軍規が厳しい中でしたが、私たちと同様、何らかの形で情報を得た人たちが戦地へ旅立つ兵士を見送りに来ていたのです。
何時間待ったでしょうか。やがて、ザッツ、ザッツ、ザッツと地を踏む音がして、黒々とした人影の集団が現れました。彼らがいかに規則正しく行進しているかは、地を踏む音と、黒い陰の固まりが一定のリズムをもって揺れながら闇を押し退けて進む様子で分かりました。?幼い私にとってはそれは黒い巨大な固まりでした。行進の音に混じって時折聞こえる金属の擦れ合うような音は、彼らが携帯している武器などによるものだったのでしょう。
?
角灯は当時もあったがもちろん灯は入っていなかった
怖かったのです。幼い私にはその不気味な黒い集団がこの空間を圧倒しきっている様子が怖かったのです。そこには、私が絵本で見ていた、軍艦の舳先で手旗信号を送る水兵さんの輝く顔つきや、背筋をぴんと伸ばして騎乗する陸軍将校の凛々しさとは全く違う「たたかふ兵隊」の汗のにおいがする厳しさ、おどろおどろしさがありました。
必死で父を捜しました。しかし、灯りひとつないところでそれは不可能でした。?母や祖父もそうだったのでしょう。そこで祖父が、タバコ用のマッチをとりだし、それに火を点じると、私たちの顔の前にかざしました。?いいアイディアでした。父が見つからないなら、せめて自分たちの顔を見せてやろうとする必死の思いつきだったと思います。
しかし、しかしです。?
「誰だっ!灯りなど灯したやつはっ!」?
という大音声の叱責とともに、たぶん、隊列の横を歩いていた指揮官の一人と思われる人影ががとんできたのです。
祖父は慌ててマッチを落とし、踏んづけました。?指揮官らしい男は、私たちの方を凝視しているようでしたが、やがて隊列に戻ってゆき、事なきを得ました。?これらは全て闇の中の一瞬の出来事でしたが、祖父が手放したマッチの落下がなぜかゆっくりだったような気がするのです。
?
こうして黒い集団は通り過ぎました。その数が何人だったのかもよく分かりません。?「後を追ってはならない」と厳しくいわれていましたので、私たちは岐阜へ帰るべく別の道筋を通って名古屋駅に着きました。?しかし、一縷の期待にもかかわらず、名古屋駅には兵士たちの姿はありませんでした。?きっと、どこか別の通路からホームにあがり、専用列車でどこかの軍港へ向かったのでしょう。
橋から西の堀 昼なお鬱蒼とした感がある
それから何十年経った1990年のことです。黒澤 明監督の当時の新作『夢』という映画を観ました。?やはり大家になると晩年には説教くさくなるのかなぁ、などと生意気な感想をもって観ていたときでした。そのオムニバス映画の第4話に至って、私の全身を電流か駆け抜けるようなシーンと遭遇したのでした。
私はどんな映画でも、割合、冷静に観る方です。しかし、このときは、「あっ、それって、あのときの」と思わず叫びそうになったのです。?既視感(デジャヴ)が強烈に私を襲いました。?1944(昭19)年のあの夏の夜、本町橋の上で、私はまちがいなくそれを経験したのです。
映画の第4話は、「トンネル」と題され、復員兵がトンネルにさしかかると、戦死した兵士たちが隊列を組み、まさにザッツ、ザッツと軍靴の音を響かせて立ち現れるのです。?これこそ、幼い私が本町橋の上で「経験した」光景でした。敢えて「見た」とは言いません。なぜなら、本町橋はもっと暗く、話を交わすいとまなどもなく、ただ黒い固まりが動いていったのみですから。にもかかわらず、兵士たちはあのように、本町橋の上を進んでいったのでした。しかも、それらのうち何人かはふたたびこの国の土地を踏むことがなかったのです。? ?
1944年の話はまだまだあるのですが、十分に長くなりました。また後編はいつか書きましょう。