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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

柳青める日 つばめが銀座に飛ぶ日 (完結編)

2013-06-29 01:53:11 | ポエムのようなもの
        
          同じ木だが前回は3月、今回は4月に撮したもの

(承前) 
 さてこうした銀座と柳の関係なのだが、私のような田舎者でも銀座へは何度かいったことはある(ここ10年間はない)。で、そこで柳を見たかどうかといわれると見たような見ないようなと実に曖昧なのだ。
 ようするに、銀座通りに柳並木があったようななかったようなという感じなのだ。
 その理由はいろいろ調べてみて判明した。

 それによると銀座の柳はさまざまな事情により実に紆余曲折の歴史を辿っているのだ。
 1874(明治7)年、日本最初の街路樹として銀座通りに松、桜、楓が植えられたが、地下水位が高いため育たず、1877(明治10)年、柳に一本化されたという(第一次)。しかしそれらは、1923(大正12)年、関東大震災で焼失し、その後、イチョウが植えられたが1932(昭和7)年、復活の声が高くなり再び柳になった(第二次)。しかしながらそれらもまた、1945(昭和20)年、東京大空襲で焼失してしまい、三年後の48(昭和23)年に復活した(第三次)
 ただしそれらも、長くは続かず、20年後の1968(昭和43)年にはすべて撤去された。
 
 なんというめまぐるしい変遷であろう。
 そしてここに、私が柳を見たような見ないようなという理由がある。
 つまり1950年代の終わりに初めて銀座へいった折には柳の並木を見ているのだ。そして、サラリーマン時代(1962~70年代のはじめ)、ほぼ月一回の東京出張の際も、68年までは見ているのだ。しかしながら、サラリーマン生活の晩年と、それをを辞めて以降、銀座を訪れた際には、もうそれらを見ていないのだ。
 だから見たような見ないようなという私の感想は当たっているのである。

 なお、1968(昭和43)年の柳撤去の理由は、水道、ガス、電気などの一括の地下収納に伴い、柳の根っこがじゃまになったのと、雨降りなどの折、通行人の頭や衣服を汚し、散った葉っぱなどが美観を損ねるといった理由だったらしい。

 しかし、銀座近辺の柳がすっかりなくなったわけではない。銀座通りに交わる文字通り柳通りという通りには、いまなお120本の柳並木がある。そして私にはその柳通りにまつわるある記憶がある。
 今から半世紀近い30代の初め、この柳通りにあるクラブへ接待か何かでいったことがある。その折、あるホステスさんが私の顔をまじまじと見つめていたかと思うと、「〇〇ちゃんのお兄さんでは?」と問いかけてきた。
 驚いた。〇〇ちゃんはまさに私の妹で、聞けば彼女は私のうちへもよく遊びに来ていたという。
 まさか東京の銀座で岐阜の娘と会おうとは思いもしなかった。あとで妹に訊いたら、たしかに同級生で、「お兄ちゃんに気があったみたいだよ」とからかわれた。
 その後は、出張の折に一度いったっきりで何を話したかも覚えてはいない。銀座のクラブなどサラリーマンがおいそれと行けるわけがない。

 またまた逸れてしまった。始まりはツバメからの連想で、『夢淡き東京』という歌を思い出すという話だった。
 まず、この歌のタイトルがいい。敗戦2年後なのだが、夢は「濃厚」でも「大きく」でもなく「淡い」のである。
 あの悲惨だった現実から立ち直りつつある折しも、濃厚でどぎつい物語、大東亜共栄圏や八紘一宇などはもう要らないのだ。たとえ退行に見えようが庶民のささやかな夢こそが実現さるべきなのだ(もっとも別のベクトルからも濃厚な夢や大きな物語が語られつつあり、後年私もその影響下に組み込まれれたのだが)。
 さて、ここで『夢淡き東京』の全歌詞(サトウ・ハチロー)をあらためて紹介しよう。

  柳青める日 つばめが銀座に飛ぶ日
  誰を待つ心 可愛(かわい)いガラス窓
  かすむは 春の青空か あの屋根は
  かがやく 聖路加(せいろか)か
  はるかに 朝の虹も出た
  誰を待つ心 淡き夢の町 東京

  橋にもたれつつ 二人は何を語る
  川の流れにも 嘆きをすてたまえ
  なつかし岸に 聞こえ来るあの音は
  むかしの 三味(しゃみ)の音(ね)か
  遠くに踊る 影ひとつ
  川の流れさえ 淡き夢の町 東京

  君は浅草か あの娘(こ)は神田の育ち
  風に通わすか 願うは同じ夢
  ほのかに胸に 浮かぶのはあの姿
  夕日に 染めた顔
  茜の雲を 見つめてた
  風に通わすか 淡き夢の街 東京

  悩み忘れんと 貧しき人は唄い
  せまい露路裏(ろじうら)に 夜風はすすり泣く
  小雨が道にそぼ降れば あの灯(あか)り
  うるみて なやましく
  あわれはいつか 雨にとけ
  せまい露路裏も 淡き夢の町 東京


 なお、この最後の「悩み忘れんと」で始まる一節に触れて、故・小沢昭一氏は思わずむせび泣いたという。私はその気持がよくわかる。
 私もいっときは、過大な夢や大きな物語の虜になったことがある。しかし、そうした夢が庶民の淡き夢を抑圧し、踏みにじってきた歴史も体験している。というか、私自身がその加害者であったとも思っている。
 いま、痛恨の思いを込めてそれを振り返ることができるようになった。

 だから、ツバメをみるたびに、この歌を思い出すのだろう。
 「柳青める日 つばめが銀座に飛ぶ日」の「淡き夢」を、私もまた、人びとと共有したいという思いに駆られるのである。


コメント (4)
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