
最新型の列車が猛スピードでカーブにさしかかり、脱線転覆する映像を何度も見た。
だからそれが夢のなかにまで出てきた。
私はその乗客だった。
そして、その列車が次のカーブで脱線転覆することを知っていた。
必死で手足を突っ張ってそれに備えていた。
衝撃はあったがそれはズズズーッとずれていった感じで私は無事だった。
「だからいったろう」とだれにともなく呟きながら脱出をはかった。
床はうねうねしていて歩行は困難だったが、その車両の乗客は私一人だったのだろうか。
予想していた悲惨な光景を見ることがないのが救いだった。
しかし、私はなかなか進めない。
車両のあちこちからバシッ、バシッと青白い閃光が散っている。
ああ、今のハイテクはいたるところに電気を張り巡らしているのだなと感心する。
車両の隅まで行ったが、そこは妙に跳ね上がっていて、床を登ることができない。
もう少しというところでズルズルと戻されてしまう。
これは典型的な夢のパターンだなとどこかで承知している私。
登るのは諦めて、変に傾いた座席に座り込む。
なんという変形、その変形に自分の体を合わせないとうまく座れないのだ。
怒りがこみ上げてくる。
何でこんないびつなものに自分の身体を適応させねばならないんだ。
「だからいったろう」が今度は呟きではなく大きな声に出る。
ノートパソコンを取り出し記録しようと思う。
ん?記録というより論評をかくべきではないかと思う。
疾走してカーブを曲がりきれないというのは現代文明の象徴ではないのか。
原発事故を含めたあらゆる悲惨が、やはりこの文明の疾走ゆえのオーバーランではないのか。
だとすると、それをどこかで止めなければならない。
「たぶん革命とはこの列車に乗って旅している人類が引く非常ブレーキだ」
といったのはベンヤミンだったろうか。
私たちはその非常ブレーキを引くことなく列車の疾走に任せていたのではないか。
私はもう夢のなかではなかった。
夢の続きを覚醒しながら考えていた。
私はこの文明の一乗客にしか過ぎないのか。
そうではなくて、その運行に責任があるのではないか。
私の引くべき非常ブレーキはどこにあるのか。
容易に結論が出ないまま、再び夢へと戻っていった。
どういうわけか列車は再び走り出していた。
次のカーブがサタンの手招きよろしく薄ら笑いを浮かべて待ち構えていた。
そこへと再び列車は前にも増した速度で疾走してゆくのだった。
私の手は虚しく非常ブレーキをまさぐっていた。