各地の花だよりをぼんやり見ていた。一昨日あたりのTVのニュースである。それらと並んで、さらっと触れられていたが、海上自衛隊が大型空母「いずも」を就役させたというニュースだった。
うかつにも、これほど大きな空母が作られていることを知らなかった。
これまでも、「ひゅうが」というヘリの艦載母艦はあったようだが、今回の「いずも」は全長にして248メートルとヘリ以外の艦載機を飛ばすのに十分な長さをもつ。しかし、「いまのところは」艦載機は積まないという。

問題は、専守防衛の自衛隊がなぜ空母を必要とするかだ。
防衛のためだけならば、この狭い国土、各地の航空基地だけで十分なはずだ。
それに、「いまのところは」というのが気になる。
やがては、ホルムズ海峡やペルシャ湾に艦載機を積んだ「わが軍」が登場するという可能性が十分あるということだ。
「なし崩し」という言葉があり、これは「済し崩し」と書いて少しずつ返済という意味だそうだが、その類語に「瓦解」というのがあり、これは「ある一部の乱れ・破れ目が広がって全体が壊れることをいい、一部の瓦が崩れ落ちると屋根全体に及ぶところから生じた語」だという。
思えば「わが軍」の歴史は、そうした、「ここまでは」、「このへんまでは」という事実が積み重なって、もはや引き返せない事態に陥っているような気もする。
「それは理想だ」、「現実的ではない」といわれながらも、例えば9条のような平和規定は、常にそこへ立ち返るべき参照点であろうと思う。しかし、そうした参照点を生かさないまま、気づいたら事態はとんでもないところへ来ていたというのが実情だろう。

結果として、敗戦直後に掲げた理想をないがしろにしてきたツケを背負ったまま、戦後70年を迎えようとしている。
あの戦争は、まるで自然事象として通り過ぎたもののように回想されはするが、それがまさに人為の累積によってなされものであり、その瓦解としてヒロシマ・ナガサキや敗戦があったことをいま一度肝に銘じるべきであろう。
これらの事態は、当初些細な妥協であったものが、それがほころびとなってのっぴきならない事態に陥るという人間のもつ弱点、そしてそれが惹起する悲劇的状況をよく示している。そして、時間や歴史は不可逆であることも。

前に紹介した庭のレンギョウがさらにその色を増し、艶やかな黄色がまわりを明るくしている。窓の外の木々の新葉も色鮮やかになりつつある。
草木は季節とともに「何故なし」に移ろいゆくからそこには邪念のようなものが介在する余地はない。だから自然と向き合うとき、私たちの心は浄化される。

それに比して、人の世は欲望が渦巻き、その結果のからみ合いとして事態が変化してゆく。だからある種の醜さは隠せない。
しかし、ほかならぬこの私がその人の世の一員である以上、そこから逃げ出すわけにはゆかない。
草木を愛でながらも、この「憂き世」との関わりを断つわけにはゆかないのだから、事態と向き合って自分なりの応答をしてゆくほかはない。
うかつにも、これほど大きな空母が作られていることを知らなかった。
これまでも、「ひゅうが」というヘリの艦載母艦はあったようだが、今回の「いずも」は全長にして248メートルとヘリ以外の艦載機を飛ばすのに十分な長さをもつ。しかし、「いまのところは」艦載機は積まないという。


問題は、専守防衛の自衛隊がなぜ空母を必要とするかだ。
防衛のためだけならば、この狭い国土、各地の航空基地だけで十分なはずだ。
それに、「いまのところは」というのが気になる。
やがては、ホルムズ海峡やペルシャ湾に艦載機を積んだ「わが軍」が登場するという可能性が十分あるということだ。
「なし崩し」という言葉があり、これは「済し崩し」と書いて少しずつ返済という意味だそうだが、その類語に「瓦解」というのがあり、これは「ある一部の乱れ・破れ目が広がって全体が壊れることをいい、一部の瓦が崩れ落ちると屋根全体に及ぶところから生じた語」だという。
思えば「わが軍」の歴史は、そうした、「ここまでは」、「このへんまでは」という事実が積み重なって、もはや引き返せない事態に陥っているような気もする。
「それは理想だ」、「現実的ではない」といわれながらも、例えば9条のような平和規定は、常にそこへ立ち返るべき参照点であろうと思う。しかし、そうした参照点を生かさないまま、気づいたら事態はとんでもないところへ来ていたというのが実情だろう。

結果として、敗戦直後に掲げた理想をないがしろにしてきたツケを背負ったまま、戦後70年を迎えようとしている。
あの戦争は、まるで自然事象として通り過ぎたもののように回想されはするが、それがまさに人為の累積によってなされものであり、その瓦解としてヒロシマ・ナガサキや敗戦があったことをいま一度肝に銘じるべきであろう。
これらの事態は、当初些細な妥協であったものが、それがほころびとなってのっぴきならない事態に陥るという人間のもつ弱点、そしてそれが惹起する悲劇的状況をよく示している。そして、時間や歴史は不可逆であることも。


前に紹介した庭のレンギョウがさらにその色を増し、艶やかな黄色がまわりを明るくしている。窓の外の木々の新葉も色鮮やかになりつつある。
草木は季節とともに「何故なし」に移ろいゆくからそこには邪念のようなものが介在する余地はない。だから自然と向き合うとき、私たちの心は浄化される。


それに比して、人の世は欲望が渦巻き、その結果のからみ合いとして事態が変化してゆく。だからある種の醜さは隠せない。
しかし、ほかならぬこの私がその人の世の一員である以上、そこから逃げ出すわけにはゆかない。
草木を愛でながらも、この「憂き世」との関わりを断つわけにはゆかないのだから、事態と向き合って自分なりの応答をしてゆくほかはない。