「朝日」の文化・文芸欄に五木寛之(五木ひろしではない。ただし彼の芸名は五木寛之に由来する)が永六輔、大橋巨泉、それに昨年なくなった野坂昭如、さらには10年ほど前に逝った青島幸男などについて論じている。
まず、その彼らと加えて五木自身が、三木鶏郎(1914~94年)の「冗談工房」に何らかの関わりがあったことが述べられている。
三木鶏郎制作のNHKのラジオ番組「日曜娯楽版」はまだ小学生だった私が背伸びしながら聞いていた番組で、コント風の政治風刺と、数々の名曲を生み出した「冗談音楽」(シリアスなものも結構あった)を楽しみにしていた。
この番組などをはじめとし、この頃の三木鶏郎の近くやその周辺にいたのが前述の人々である。彼らは、今風にいえば、知識人がまともに取り上げなかったサブカルの分野を切り開いた人たちだった。いってみれば、世の中の事象を少し斜に構えて、シニカルにジョークで取り上げるというのがコンセプトだったようだ。
これについて、五木寛之は面白い指摘をしている。
なぜそうした構えの人々を生み出したかというと、敗戦後の戦争責任追及もウヤムヤのまま、東西冷戦下で始まったいわゆるレッドパージにその要因があるというのだ。まともな政治的言説が抑圧や追放の憂き目に逢い、硬直した左翼の方針はさまざまに動揺しながら時として玉砕的な攻撃に出て叩きのめされるなか、こうしたサブカル的なジョークの形でしかその言説を「民衆のなか」へ届けることができなかったというのだ。
「民衆のなかへ」のもうひとつの特徴は、彼らはラジオ(TVはしばらく後)という媒体で、したがって話し言葉で語りかけたということである。いささか大仰だが、五木は、キリストも釈迦もソクラテスも話し言葉の人だったという。
ただし、それらのひとのなかにも、そうした活動を活字の世界へも普及させようとする人たちがいて、それが野坂昭如であり、井上ひさしであり、五木本人であったという。しかしながら彼らも、いわばサブカル的土壌で培ったエンタメ精神を最後まで捨てることはなかったと付け加えている。
五木は、21世紀の現状についても語っている。
それは、サブカルがもはやメインになってしまった時代であり、したがって、サブカルのもっていたメインへの異議申し立てという側面が失われてしまっているという現実である。
そしてそれが、今まで、ジョークやエンタメの世界にいた永六輔や大橋巨泉などが、その晩年、今度は政治の言葉を用いてアゲインストせざるを得なかった背景でもあるということだ。確かに、彼らの晩年をみるとそれは当を得ているといえるだろう。
戦後に始まり、いま消滅しようとしている(すでに消滅した?)一つの文化のありようをうまく整理し、合わせて自己の立ち位置をも明確にする論考だといえる。
さて、ところで、彼らが切り開いてきたもの、やり残したことなどはどう継承されようとしているのだろうか。それら自身がもはや過ぎ去ったものとして放擲されてしまうのだろうか。