岐阜駅前からわずか2、3分のところでこんな光景を見ることが出来るなんて、廃墟フェチにはたまらない光景だ。
ただし、正確にはすべて廃墟というわけではない。再開発により、背中合わせのビルのこちら側が取り壊された結果、向こう側の背中が露呈したという次第なのだ。
しかし、この地域の再開発が進めば、これもまた取り壊されるのはそんなに遠い日のことではないだろう。

場所は、岐阜駅前の繊維問屋街の一角である。
この光景の向こう側は、繊維問屋街の表側ということになる。ただし、そのうち何軒が生き残っているかはあとに述べるような事情からして、定かではない。恐れく半数以下であることは間違いない。
かつてこの一帯は、繊維二次製品(縫製加工品)の問屋が最盛期には1,500店と軒を連らね、仕入れに来る全国各地からの小売商が列をなして賑わったものである。
その背景には、水の豊富な土地に栄えた紡績工場の数々、そして木曽川をはさんだ尾張一宮を中心とした織物工場の隆盛、それを受けての岐阜を中心とした縫製工業の繁栄があった。
1970年代の終わりごろまでは、岐阜の街を歩くと、至るところから工業用ミシンのドドドドッという駆動音が聞こえたものである。

こうして、岐阜は繊維二次加工品(ようするに既製服)の有数の産地となり、その全国への供給の場所として駅前繊維問屋街が賑わったわけである。
こうした賑わいに陰りをもたらしたのは、皮肉にも高度成長の進展であった。1960年代に始まったそれは、重化学工業や巨大公共事業などによって一挙にこれまでの産業構造を変革するところとなった。
かつてはこの国を支え、またこの地区やその他の生産地や販売の集約地を支えた繊維産業は、この高度成長後期とともにどんどん衰退へと向かう。
そのひとつは、労働集約産業でしかもそのファッション性からして多品種少量生産を迫られるこの分野は、当時盛んに叫ばれた合理化、生産性の向上に馴染みにくく、繊維産業そのものが全体の製造業から相対的に後退を余儀なくされたということであり、さらには、流通革命の嵐の中で、家庭内職のような零細をも含む製造者、中小が多い販売者の連鎖はその分野でも著しく出遅れたといってよい。

現在の繊維業は、その製造は海外が主流で、当初は中国が主流だったが、その中国でも各種産業が隆盛をみるにしたがいいまや賃金コストが合わなくなり、より安価な労働力を求めてベトナムなどの周辺国へと拡散して行っている。
さらに流通面では、それら産地との最短ルートで大型小売店で売られるケースが多く、街角の衣料品店は次第に姿を消しつつある。
残っているのはオートクチュール系のブティックなどであるが、これらは単価からして上に述べた製造や流通の隘路をクリアーしうるということであろう。
なお、かつて縫製業のメッカ岐阜ではいまも多少の業者が残ってはいる。ただし、そのうちの一部では、外国人を研修生名目で低賃金、重労働で働かせて問題になっているところもある。

さて、例によって脱線著しいが、ここに載せた光景はそうした歴史的背景をもとにこうなったといえる。
ちなみに、1980年頃には1,500店ぐらいあったこの問屋街は、いまでは500店を割り込んでいるといわれる。
なかには、完全にシャッター街になり、昼間通るのも怖いぐらいのところもある。
そうしたなかで、広大な面積を誇る問屋街全体がいまや再開発の対象となっている。駅前に広がるこのエリアが、どのように姿を変えるかは、将来の岐阜のイメージを決定づけるものとなるであろう。
しかし、その姿はいまのところ私たち市民には明らかにされていない。

折しも、来年2月には、現市長の任期満了に伴う市長選が行われる。おそらくその政策の一つの重要事項がこの地域の将来像をどう提示しうるかだろうと思う。
注目してみてゆきたい。
思えば一つの風景から、それを生み出したいきさつやら、未来像やら、いろいろな問題が浮かび上がるものである。
しかし、この独特の風情、風貌は嫌いではない。
だから、これはこれで残してもと思うのだが、そうは「問屋」がおろさないだろう。
ただし、正確にはすべて廃墟というわけではない。再開発により、背中合わせのビルのこちら側が取り壊された結果、向こう側の背中が露呈したという次第なのだ。
しかし、この地域の再開発が進めば、これもまた取り壊されるのはそんなに遠い日のことではないだろう。

場所は、岐阜駅前の繊維問屋街の一角である。
この光景の向こう側は、繊維問屋街の表側ということになる。ただし、そのうち何軒が生き残っているかはあとに述べるような事情からして、定かではない。恐れく半数以下であることは間違いない。
かつてこの一帯は、繊維二次製品(縫製加工品)の問屋が最盛期には1,500店と軒を連らね、仕入れに来る全国各地からの小売商が列をなして賑わったものである。
その背景には、水の豊富な土地に栄えた紡績工場の数々、そして木曽川をはさんだ尾張一宮を中心とした織物工場の隆盛、それを受けての岐阜を中心とした縫製工業の繁栄があった。
1970年代の終わりごろまでは、岐阜の街を歩くと、至るところから工業用ミシンのドドドドッという駆動音が聞こえたものである。

こうして、岐阜は繊維二次加工品(ようするに既製服)の有数の産地となり、その全国への供給の場所として駅前繊維問屋街が賑わったわけである。
こうした賑わいに陰りをもたらしたのは、皮肉にも高度成長の進展であった。1960年代に始まったそれは、重化学工業や巨大公共事業などによって一挙にこれまでの産業構造を変革するところとなった。
かつてはこの国を支え、またこの地区やその他の生産地や販売の集約地を支えた繊維産業は、この高度成長後期とともにどんどん衰退へと向かう。
そのひとつは、労働集約産業でしかもそのファッション性からして多品種少量生産を迫られるこの分野は、当時盛んに叫ばれた合理化、生産性の向上に馴染みにくく、繊維産業そのものが全体の製造業から相対的に後退を余儀なくされたということであり、さらには、流通革命の嵐の中で、家庭内職のような零細をも含む製造者、中小が多い販売者の連鎖はその分野でも著しく出遅れたといってよい。

現在の繊維業は、その製造は海外が主流で、当初は中国が主流だったが、その中国でも各種産業が隆盛をみるにしたがいいまや賃金コストが合わなくなり、より安価な労働力を求めてベトナムなどの周辺国へと拡散して行っている。
さらに流通面では、それら産地との最短ルートで大型小売店で売られるケースが多く、街角の衣料品店は次第に姿を消しつつある。
残っているのはオートクチュール系のブティックなどであるが、これらは単価からして上に述べた製造や流通の隘路をクリアーしうるということであろう。
なお、かつて縫製業のメッカ岐阜ではいまも多少の業者が残ってはいる。ただし、そのうちの一部では、外国人を研修生名目で低賃金、重労働で働かせて問題になっているところもある。

さて、例によって脱線著しいが、ここに載せた光景はそうした歴史的背景をもとにこうなったといえる。
ちなみに、1980年頃には1,500店ぐらいあったこの問屋街は、いまでは500店を割り込んでいるといわれる。
なかには、完全にシャッター街になり、昼間通るのも怖いぐらいのところもある。
そうしたなかで、広大な面積を誇る問屋街全体がいまや再開発の対象となっている。駅前に広がるこのエリアが、どのように姿を変えるかは、将来の岐阜のイメージを決定づけるものとなるであろう。
しかし、その姿はいまのところ私たち市民には明らかにされていない。

折しも、来年2月には、現市長の任期満了に伴う市長選が行われる。おそらくその政策の一つの重要事項がこの地域の将来像をどう提示しうるかだろうと思う。
注目してみてゆきたい。
思えば一つの風景から、それを生み出したいきさつやら、未来像やら、いろいろな問題が浮かび上がるものである。
しかし、この独特の風情、風貌は嫌いではない。
だから、これはこれで残してもと思うのだが、そうは「問屋」がおろさないだろう。