私の住まいは都市郊外の市街地と田園風景とがせめぎ合うような場所だというのは何度も書いてきた。
せめぎ合うも何も、半世紀前、私がここに住み始めた発端は、100メートル四方に何もない田んぼの真中に、材木商の亡父が材木置場にと一反(300坪=約992㎡)を買い、置いた商品の盗難予防にここに住まないかと誘ってくれたもので、狭いアパートで親子3人暮らしだった私は、当時の名古屋の職場への通勤が厳しくなることは承知の上で、それを了承したのだった。
その意味では、私の移住そのものがこの地の市街化の尖兵であったわけである。

その後、いわゆる高度成長期に市街化は一挙に進んだ。しかしその停滞、バブルの崩壊などでその勢いは削がれ、しばらくは市街と田園の拮抗したままの状態が続いた。
それがここ2、3年、またまた急速に市街化が進み始めた。しばしば書いたように周辺の多くの田んぼが失われた。そして昨年、私の家の真向かいに、チェーン店のドラッグストアが開店するに及び、市街化はさらに急速に進みつつある。

このドラッグストアの開店そのもので、私のうちの二階からの眺望のうち、東南方向の田んぼがすべて失われた。
それでもまだ、私に家の北側には、300坪の休耕田を挟んで2反(600坪)の現役の田んぼが広がり、その田植えや稲刈りをウオッチングするのが恒例となっていた。

しかし、その手前の休耕田が埋め立てられ、そこに4軒の家が建つこととなった。そのうち、一番奥の家はすでに着工し、ほぼ完成して内装工事中である。ただし、これは私の部屋の窓からの眺望にはまったく関わりなく、なおも眼下には青々とした田が広がっている。
この分でゆくと、今年の稲刈りも見ることができそうだとたかをくくっていた。

2、3日前のことである。朝寝坊の私の耳に時ならぬ車両の、しかも重車両と思しきもののエンジン音が飛び込んできた。そういえばしばらく前、測量か割付かの作業をしてたっけと思い出した。
まさに私の部屋の眼下、まっ正面でいよいよ建築工事が始まったのだ。
まずは土台作りのようだ。一日中騒音がうるさい。TVの音響は50ほどにしないと聞こえないぐらいだ。

二階の窓からこの距離で作業が行われている
ここに家が建つと私の田んぼウオッチングは終了することになる。かつて、四方八方田んぼであったわが家からの眺望に終止符が打たれることになるのだ。あとは、遠くの家並みの間にちらっと青い箇所が見えるぐらいになってしまう。
もちろん嘆いても仕方がないことではある。ただただ、時に従っての土地の変遷に思いを馳せるばかりだ。
こうして、半世紀で風景は激変し、田園が市街の侵食に屈したわけだが、このあたり一帯が田として開墾されて以来、田園風景は何百年の単位で、あるいは一千年近い単位でさしたる変貌もなしに続いてきたのではあるまいか。

こうしてみると、私の生きた時代というのは、自然にしろ人の生業にしろ、伝統的なものを破壊して新しいものを登場させるというまさに近代に属することが身にしみてわかる。
そして生意気にも、若き折には、その近代そのものの限界や矛盾を打ち破るのだと、ポスト近代(ポストモダンとは違う)を目指した闘いに臨み、近代の強固な壁の前に一敗地にまみれたまま、のたうち回ってこの歳を迎えたことになる。

これは建築物の土台になるようだ
風景は「まわりの様子」ではない。そこに自分が住まい、そこから生み出されるものに何がしか支配されるという意味ではまさに私にとっての世界にほかならない(世界内存在?)。
思えば多くのものと別れてきた。ここへきた時は、まだ空地にはキジがいて、雛を連れて練り歩いていた。田園に固有の昆虫や鳥類、魚類、田の匂い、とりわけそれを波打たせてやってくる風の涼やかさ・・・・、それらを記憶の中にしまいながら、いま私の眼前から消えようとしている田園を静かに見送ろう。

最後の写真は、私の近くの空地だが、ここも数年前まで立派な田んぼだった。いつも、私より少しお姉さんの農婦が、こまめに田んぼをチェックし、疲れると畦に腰を下ろして、自分の田を慈しむように眺めえいたのが印象的だった。
数年前、耕作をやめた時は、田んぼもだが、その農婦のことが気になったものである。もう田を見続けることに限界が来たのだろうか、と。
やがて埋め立てられ、雑草が生い茂っていたが、ここ終日ですっかり刈り取られ、簡易トイレなどが持ち込まれたところを見ると、やはり何かができそうだ。
家が建ち、それが家々に増え、その間の田がオセロゲームのようにひっくり返ってゆく。それが私の住まう一帯なのだ。
せめぎ合うも何も、半世紀前、私がここに住み始めた発端は、100メートル四方に何もない田んぼの真中に、材木商の亡父が材木置場にと一反(300坪=約992㎡)を買い、置いた商品の盗難予防にここに住まないかと誘ってくれたもので、狭いアパートで親子3人暮らしだった私は、当時の名古屋の職場への通勤が厳しくなることは承知の上で、それを了承したのだった。
その意味では、私の移住そのものがこの地の市街化の尖兵であったわけである。

その後、いわゆる高度成長期に市街化は一挙に進んだ。しかしその停滞、バブルの崩壊などでその勢いは削がれ、しばらくは市街と田園の拮抗したままの状態が続いた。
それがここ2、3年、またまた急速に市街化が進み始めた。しばしば書いたように周辺の多くの田んぼが失われた。そして昨年、私の家の真向かいに、チェーン店のドラッグストアが開店するに及び、市街化はさらに急速に進みつつある。

このドラッグストアの開店そのもので、私のうちの二階からの眺望のうち、東南方向の田んぼがすべて失われた。
それでもまだ、私に家の北側には、300坪の休耕田を挟んで2反(600坪)の現役の田んぼが広がり、その田植えや稲刈りをウオッチングするのが恒例となっていた。

しかし、その手前の休耕田が埋め立てられ、そこに4軒の家が建つこととなった。そのうち、一番奥の家はすでに着工し、ほぼ完成して内装工事中である。ただし、これは私の部屋の窓からの眺望にはまったく関わりなく、なおも眼下には青々とした田が広がっている。
この分でゆくと、今年の稲刈りも見ることができそうだとたかをくくっていた。

2、3日前のことである。朝寝坊の私の耳に時ならぬ車両の、しかも重車両と思しきもののエンジン音が飛び込んできた。そういえばしばらく前、測量か割付かの作業をしてたっけと思い出した。
まさに私の部屋の眼下、まっ正面でいよいよ建築工事が始まったのだ。
まずは土台作りのようだ。一日中騒音がうるさい。TVの音響は50ほどにしないと聞こえないぐらいだ。

二階の窓からこの距離で作業が行われている
ここに家が建つと私の田んぼウオッチングは終了することになる。かつて、四方八方田んぼであったわが家からの眺望に終止符が打たれることになるのだ。あとは、遠くの家並みの間にちらっと青い箇所が見えるぐらいになってしまう。
もちろん嘆いても仕方がないことではある。ただただ、時に従っての土地の変遷に思いを馳せるばかりだ。
こうして、半世紀で風景は激変し、田園が市街の侵食に屈したわけだが、このあたり一帯が田として開墾されて以来、田園風景は何百年の単位で、あるいは一千年近い単位でさしたる変貌もなしに続いてきたのではあるまいか。

こうしてみると、私の生きた時代というのは、自然にしろ人の生業にしろ、伝統的なものを破壊して新しいものを登場させるというまさに近代に属することが身にしみてわかる。
そして生意気にも、若き折には、その近代そのものの限界や矛盾を打ち破るのだと、ポスト近代(ポストモダンとは違う)を目指した闘いに臨み、近代の強固な壁の前に一敗地にまみれたまま、のたうち回ってこの歳を迎えたことになる。

これは建築物の土台になるようだ
風景は「まわりの様子」ではない。そこに自分が住まい、そこから生み出されるものに何がしか支配されるという意味ではまさに私にとっての世界にほかならない(世界内存在?)。
思えば多くのものと別れてきた。ここへきた時は、まだ空地にはキジがいて、雛を連れて練り歩いていた。田園に固有の昆虫や鳥類、魚類、田の匂い、とりわけそれを波打たせてやってくる風の涼やかさ・・・・、それらを記憶の中にしまいながら、いま私の眼前から消えようとしている田園を静かに見送ろう。

最後の写真は、私の近くの空地だが、ここも数年前まで立派な田んぼだった。いつも、私より少しお姉さんの農婦が、こまめに田んぼをチェックし、疲れると畦に腰を下ろして、自分の田を慈しむように眺めえいたのが印象的だった。
数年前、耕作をやめた時は、田んぼもだが、その農婦のことが気になったものである。もう田を見続けることに限界が来たのだろうか、と。
やがて埋め立てられ、雑草が生い茂っていたが、ここ終日ですっかり刈り取られ、簡易トイレなどが持ち込まれたところを見ると、やはり何かができそうだ。
家が建ち、それが家々に増え、その間の田がオセロゲームのようにひっくり返ってゆく。それが私の住まう一帯なのだ。