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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

フェルメール・大阪城・難波宮 大阪紀行終話

2019-04-09 01:01:09 | 写真とおしゃべり
 大阪紀行の第二日、ホテルで朝食をとり、すぐ近くの天王寺公園内にある大阪市美術館で開催中のフェルメール展へ出かける。
 開館の9時30分にはまだ余裕があるので、公園内を散策。

       
 まずは北の端にある茶臼山古墳、いわゆる茶臼山へ。ここは、大阪冬の陣(慶長19年=1614年)には徳川家康が本陣を構え、その翌年の夏の陣(慶長20年=1615年)には真田幸村が本陣をしいたところである。
 その夏の陣では、勇猛果敢な幸村の軍勢が二度にわたってあわや家康の首をというところまで追い詰めながらも、味方の凡ミスともいえる手違いにより、形勢が逆転し、ついにここが幸村自身の終焉の地となった。

 かつての居酒屋時代の店名やPCを始めて以来の私のハンドル・ネームからして、真田一族には親近感があり、何やら懐かしいロケーションで、一度は来てみたかったところである。

       
 そこから河底池という珍しい名前の池(かつて流れていた河川がここだけに残ったのだろうか)に沿って散策する。池には、カルガモやオシドリなどが朝の陽光を浴びて泳ぎ回っている。その一隅に、アオサギが一羽、身じろぎもせず一本足で立っている。この鳥は人に対して物怖じしないから、数メートルぐらいまでは接近可能である。おかげで、こんなアップの写真が撮れた。

       
 河底池にかかる朱塗りの橋越しに、通天閣がそびえている。あべのハルカスが、現代の象徴であるとしたら、通天閣は近代以降の浪速の伝統を感じさせる建造物だ。

 まだ時間があるので、美術館南にある林芙美子の文学碑を見る。彼女が大阪に触れた小説「めし」の一節が刻まれている。

       
 そうこうしているうちに美術館の開館時間が迫ってくる。さすがフェルメール、平日の開館前なのにもう並んでいる人たちがいる。

 こうして並んでいる人たちと塊になって入場するのはあまり得策ではない。のっけから混雑することは必定だからだ。先頭集団が駆け抜けるように入館してから、一呼吸も二呼吸も置いてから入る。
 一枚の絵の前に数人程度、これなら許容範囲内だ。

 これまで、私はフェルメールの絵は一枚しか観たことがない。もう小十年前、愛知県豊田市美術館に来た「地理学者」がそれだ。
 その折にはたった一枚のそれの展示方法が仰々しくて、なんだか絵画が解剖されているようでいささかたじろいだ覚えがある。いってみれば、展示する側の絵画に対する付加価値の押しつけが強烈過ぎたということであろうか。あれでは鑑賞というより拝観だと思ったりした。

 今回の展示はそうした仰々しさはなく自然に観ることができた。
 展示絵画の総数は五〇点ぐらいだが、全六章に振り分けられ、フェルメールのものは第六章の六点であり、それ以前の五章までは、当時のオランダ絵画の系譜をなぞる様な編集になっていいる。

 「フェルメール展」と銘打ちながらたったの六点とはと思われるかもしれぬが、この六点を極東の地にいて観ることができるということ自体が稀有なことなのだ。何しろ、フェルメールの作品は、今のところ、世界中で35点しか確認されていなくて、しかもそれが、世界各地に分散しているのだから、そのうちの六分の一を観ることができる機会はそんなにあるものではない。

       
 絵画や音楽を文章で書くのは苦手だが、フェルメールの絵は、どこか肩肘張らずに観ることができる。題材が風俗画中心だからということもあるだろう。しかし、今回、六点のうち一点は「マルタとマリアの家のキリスト」という宗教に題材をとったものなのだが、それ自体が少しも宗教画らしくなく、むしろ、彼の他の絵画と同じくドメスティックな感じがするのだ。

       
 これはおそらく、そこに描かれている人物の視線の行方にもあると思う。この「宗教画」での彼らの視線の交差は他者への啓蒙などという気配は一切含まず、気心知れたものの対話という家庭的なものでしかない。
 ゴタクはともかく、私の好みでは「手紙を書く婦人と召使い」が一押しで、構図や色使い、婦人と召使いの視線の対比、カーテン、スカートのヒダ、床の市松模様などの直線の素晴らしい配置、これが一番印象に残った。

       
         
 ついで大阪城。ここは三度目か。やはり大阪の目玉、折からの花の開き具合からして多くの人出は当然であろう。もちろん、ここもインターナショナルである。最初にここを訪れた半世紀前には、中国からの団体と思われる人たちや、スカーフをまとったムスリムの人たちがこんなふうにここを訪れる日がこようなんて夢想だにしなかった。

       
       
       
 規模がすごいし、石垣が美しい。今考えても、これだけの大規模な建造が、さほどの日数を要することなく構築されたのは、やはり専制時代の特色であろうか。

         
       
 大阪城から見て西南にあたるところにある大阪歴史博物館を訪れる。
 このモダンな建物のうちには大阪の歴史がびっしり詰まっているようなのだが、その全部を見ることは時間的にも無理がある。
 私がこれまで知らなかったことなどを重点に観る。

       
 その一つは、大阪の最古層に埋もれていた難波宮についてである。
 宮というのは古代のこの国の首都を指しているから、それがこの大阪の地にあったということである。しかも、二度にわたって。
 
 その時期はというと、645年、中大兄皇子らが蘇我氏を打倒したクーデター「乙巳(いっし)の変」の後に孝徳天皇が新しい都として建設したもの(前期)と、726年から聖武天皇が再び整備し、744年には一時、都にした(後期)の二度に及ぶ。

       
 当時は、天皇が変わるごとに都を変えていたから、その変遷の中での位置づけからいうと、前期は飛鳥板葺宮と飛鳥宮の間、後期は、平城宮と長岡宮の間ということになる。
 
 ちょっと驚くのは、日本書紀にも記され、大化の改新の舞台ともなったこの難波宮の所在が全くわからなくなり、幻の宮とまでいわれていたということである。そして、なんと前世紀の中頃以降、1950年代になってやっとその所在が突き止められたという事実だ。

 この発掘に情熱を燃やし、実現にこぎつけた功労者は、考古学者の山根徳太郎(1889年 - 1973年)氏で、彼は、戦前からこの土地ではないかと目をつけていたにもかかわらず、当時は日本帝国陸軍がこの一帯を用地接収していたため、調査自体が不可能だったという。
 1945年、日本の敗戦によりこの制限が解かれたのをきっかけに山根氏の各方面への根回しが始まり、ついに大々的な発掘調査が実現し、今日のようにその全貌を観るに至ったのだという。

         
 古代、この一体は海が切れ込んで河内湾をなしており、その一角にあったのが難波潟であり、この港を海上交通の玄関としてもっていたのがこの難波宮と考えられる。いまはもう、大阪城の南側で、海の痕跡は全く見られないが、往時は著名な港であって、「難波潟」を含む歌は百人一首のみで三首も採られている。

 難波潟みじかき葦の節の間も会はでこの世をすごしてよとや(伊勢)
 侘びぬれば今はたおなじ難波なるみをつくしてもあはむとぞ思ふ(元良親王)
 難波江の葦のかりねの一夜ゆゑ身を尽くしてや恋渡るべき(皇嘉門院別当)

       
 そうしたいきさつを知ったのち、この歴史博物館の最上階、10階から見下ろす大極殿跡を中心にした難波宮跡地の全貌は、いまは平面だが、そこに古代の都を思い絵がく想像のキャンバスを提供しているようだ。

 中世、西行の歌の世界から始まった大阪探訪は、現代俗世の象徴のような道頓堀にいたり、翻って17世紀オランダの絵画の世界へと転じ、さらには戦国の大阪の陣、そして最後には古代の都・難波宮へと至ったのだった。その時間の振幅たるや、千数百年に及ぶ旅だった。

       
 この日は効率よく回れたので、名古屋行の近鉄アーバンライナーの始発駅、難波についたのはネットで予約したチケットレスの特急券よりも一時間も早かった。
 そこで、一時間前のものに変更をして帰途につくことができた。
 要するに、前日、バスがないため一時間のロス(全く無駄ではなかったが)が出た分を、最後の最後で取り返したことになる。

 二日間で約3万5千歩、いささか疲れたが、歩数が伸びた分だけ、老いの身でありながら知らなかった領域に接することができたということだろう。
 まあ、いってみれば、地獄の閻魔様への土産話のようなものにすぎないが・・・・。
 
コメント
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