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嗚呼!商店街の悲鳴が聞こえる!

2020-03-21 02:05:37 | 社会評論

 私が三〇年間にわたって店をもち、お世話になった名古屋は今池商店街の複数の友人から、街は閑散とし、夜の飲食店は軒並み閑古鳥が鳴いているというニュースが届いている。
 
 痛ましいことだ。というより、もし自分が今なおそこに店をもっていたらと考えるとゾットする。
 キャパ六〇席ほどで常時六~七名のスタッフを抱えていた私の店では、今の状態なら、月にして百万以上の赤字は必至だろうと思われる。

 零細中小の個人経営では、三ヶ月も赤字は続けばのれんを守るのが苦しくなる。六ヶ月も続けば完全な赤信号だ。
 それ以上耐えきれる内部留保などもっているところは少ないし、また、将来のために蓄積したものを全部はたいて営業を続ける意義を見いだせないで店を畳むところもでてくる。

              

 政府は、経済被害を補償するという。しかし、その補償は組織された人たちに限られてはいないか。ちなみに、組織された労働者には日額8,000円余の支給に対し、フリーランスにはなんの根拠もなく半額以下の4,100円の補償という。

 また、資金繰り援助として無利子の貸付を行うともいわれている。この低金利時代、利子は大したことはないが、利益が上がらなければ返済することもできないし、利益が上る前の運転資金で借り入れ分が消費されてしまう可能性もある。
 だから、貸付枠を大幅に拡張すること、返済開始をコロナ終焉後、六ヶ月ほど経過してからぐらいと設定すべきだろう。そうでなければほんとうの救済案にはならない。

 物品販売はともかく、夜の飲食店などは生活必需の面から見たらなくても良いものに思われがちである。非常時にはまっさきに自粛が求められたりする(私はそれに逆らって営業し、右翼に襲撃されたことがあるが)。

 しかし、身びいきかもしれないが、私にいわせれば、夜の飲食街も、広い意味では社会的なインフラの一環をなしているのだ。
 このストレスに満ちた世の中、飲食店で過ごす人々は、それらを払拭し、改めて自らを更新し、明日へと立ち向かうのだ。

          

 三〇年間、私は自分の店でそういう人々を見てきた。また、それにより、私自信も多くの力を得てきた。
 自分の包丁にかかる料理に万全の自負をもっているオーナーシェフ、一杯のラーメンに誇りと自尊心を込めて提供する店主、彼らの存在は人々が不条理なこの世を乗り切る活力を秘めている。
 いつの世でも、夜の飲食街は私たち共通の財産であり、広い意味でのインフラだという所以である。

 零細、中小の物品販売や飲食店、その他のサービス業をも含めてだが、これらを救済策からはみ出させてはいけない。こうした商店街の死滅は、働く人たちを、家と職場とを往復するロボットにしてしまうことだ。
 飲食を含む商店街は、組織された経営体や労働者に劣らず、守られなければならない。

 文化は、一見、生活必需から除外されるようなところにこそ宿るのだ。諸芸術がそうであるように。


     写真はいずれも昨秋の今池まつりのもの

 

コメント
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