所属する会で、小林秀雄の『モーツァルト』に関しての講演が行われるということで、その下調べとして当該書を再読した。最初に読んだのはもう半世紀以上前になろうか。で、その折、その書から何を得たのかはさっぱり記憶にない。「道頓堀を歩いていたとき」とか、「tristesse allante=かなしみが疾走する」などのフレーズを断片的に覚えているのみだ。
モーツァルトの音楽もろくすっぽ聴いてもおらず、その伝記的な事実にも暗く、ましてや小林の圧倒的な博識にもついてゆけず、ただただ「読むべき教養書」としてその論理のみを追った読書だったのだから、ほとんど何も理解し得なかったのも無理はない。典型的な若読みのなせるところであろう。
この半世紀、いろいろ身につけたものを動員して再度挑戦したわけだが、以前よりも見通しの良い読書になったのは当然としても、なおかつ、そのいいたいところをつかまえるにはさほど容易ではない書ではある。
モーツァルトが天才であることは自他共認めるところである。その才の一つが、本来、線的に時間系列を追う音楽を、彼は一覧性のように全体像として想起することができたということである。こうした能力は、ジャンルは違うが、ミッシェル・フーコーにもあり、彼の読書は、ページを開いた途端、そこに書かれている事柄が一覧性として受容でき、行を追って読むことなしに、ページを順次繰ってゆくのみで極めて短時間に書を読み上げたという。
モーツァルトに戻ろう。彼はその能力を手紙などにも書いていて、したがって彼が楽譜を書く際は、鼻歌交じりや周辺と冗談を交わしながらもそれをなし得たというのだ。なにしろ、頭に浮かんでいる総譜をただ五線紙に書き写せばよかったのだから。したがって、彼の書いた楽譜は戸惑いや苦闘の痕跡、書き直しなどはほとんど見られず、とてもきれいだったという。
しかし、小林が語ろうとしたのは、そうした天賦の才能についてではない。たしかにそれはありうるかもしれない。しかし、それだけでは彼の音楽の本質を言い当てたことにはならない。
小林は、この論考の中盤で、シューマンを筆頭とするロマン派の音楽に対する姿勢との対比でモーツァルトを語ろうとする。シューマンの功績は、その音楽と同時に、音楽を語る言葉を見出し、言葉や概念の音楽化を見出したことにある。彼が最初の音楽評論家と称される由縁である。
しかし、これには功罪相半ばというかある意味で否定すべきだ小林はいう。必要以上に饒舌であり、論理的で、真に迫ろうとする衝動は音楽ではないというのだ。
「明確な形もなく意味もない音の組み合わせの上に建てられた音楽という建築は・・・・」で始まる一節は、「人々は音楽についてあらゆる事を喋る。音を正当に語るものは音しかないという真理はもはや単純すぎて(実は深すぎるのだが)人々を立ち止まらせる力がない。音楽さえもう沈黙を表現するのに失敗している今日・・・・」と綴られる。
小林はそこを抑えておいて、モーツァルトの経歴を振り返る。そしていう。モーツァルトの「円熟し発展した形での後の作品に現れる殆ど凡ての新機軸は、1772年の作品に芽生えとして存在する」と。「16歳で、既に、創作方法上の意識の限界に達した」ということの内容として、モーツァルトがその父に書いた「作曲のどんな種類でも、どんな様式でも考えられるし、真似できる」という手紙を引用する。
「抵抗物のないところに創造という行為はない」とするならば、モーツァルトは天才が故にその「精神の危機」がいささか早く到来したといっていい。この危機への対応は「困難や障碍の発明による自己変革」でなければならない。
そうして自らに課した宿題の提出、それこそが1782年から85年にかけて作曲されハイドンに捧げられた六つの弦楽四重奏曲(いわゆるハイドン・セット)だと小林はいう。そしてこれはまた、音楽上の借財の返済でもあったという。
小林は少し上ずったトーンでこの一節をこう締めくくる。「・・・・モーツァルトの円熟した肉体が現れ、血が流れ、彼の真の伝説、彼の黄金伝説は、ここに始まるという想いに感動を覚えるのである」と。
さらに、モーツァルトの作曲中のラプトゥス(情熱、熱中ぶり)などを紹介し、義兄のヨゼフ・ランゲの未完の肖像画などに触れたあと、モーツァルトの孤独と悲しみに言及する。例の「tristesse allante=かなしみが疾走する」も登場する。この「かなし」についてはサラッと触れられているだけだが核心を衝いているだろう。
小林はいう。「・・・・万葉の歌人が、その使用法をよく知っていた〈かなし〉という言葉の様にかなしい」と。だとするならば、この〈かなし〉はなにかの欠落や喪失を嘆くものではなく、存在論的なそれ、いわば実存的な〈かなし〉にほかならない。だからそれは「ただのありのままの孤独」、つまり、自嘲やイロニーとは無縁な〈孤独〉に結びつくものであるとされる。
小林が参照したヨゼフ・ランゲ(妻コンスタンツェの姉・アロイージアの夫、つまり義兄)の手になる未完の肖像画。文中の記述によれば、小林はモノクロでしか見ていない。
小林は、このモーツァルトの〈かなし〉と〈孤独〉に対比させるように、もう一度ロマン派を批判的に振り返る。「浪漫派以後の音楽が僕等に提供してきた誇張された昂奮や緊張、過度な複雑、無用な修飾は、僕等の曖昧で空虚な精神に、どれほど好都合な隠所を用意してくれたかを考えると、モーツァルトの単純で真実な音楽は、僕等の音楽鑑賞上の大きな試金石であると言える」と。
そして、モーツアルトの歌劇などで肉声に与えられた音楽としての歌声を指摘したあと、圧巻の最終節に入る。
最終節の前半で小林が注目するのが、モーツアルトの作曲が、ある主題に基づく目的の達成としての熟考による「制作」などではなく、「その場その場の取引」に過ぎなかったこと、そしてそれを、「外的偶然を内的必然と観ずる能力」によって自分の課題として引き受けることによって成り立っていたことを強調する。
これはどういうことかというと、おのれに降りかかるものを忌避せず、「ヤー」といって引き受けるニーチェ的な運命愛(Amor fati)、それによって生じる偶然的なものとの出会い、即興性などを「これぞ我が人生」(セ・ラ・ヴィ =C'est La Vie) 受けて立つというモーツァルトの生き様そのものを示しているわけである。
それを小林は、以下のようにまとめる。
「彼はその場その場の取引に一切を賭けた。即興は彼の命であったという事は、偶然そのもの、未知のもの、予め用意した論理ではどうにも扱いえぬ外部からの不意打ち、そういうものに面接する毎に、おのれを根底から新たにする決意が目覚めたという事なのであった。単なる即興的才の応用問題を解いたのではなかった。恐らく、それは、深く、彼のこの世に処する覚悟に通じていた」。
これがほとんどこの一文の結論のようなものだと思うが、若干の補足が続く。
「モーツァルトは何を狙ったのだろうか。恐らく、何も狙いはしなかった。現代の芸術家、のみならず多くの思想家さえ毒している目的とか企図とかいうものを、彼は知らなかった」
これにさらに言い足して、「歩き方が目的地を作り出した」ともいっている。
そしてこれらのモーツァルトのありようが、彼の死生観、毎日の眠りに明日があるのかを問うというその死生観に根ざすものであることを示唆し、この一文は終わる。
「彼の音楽は、その驚くほど直な証明である。それは、罪業の思想に侵されぬ一種の輪廻を告げている様に見える。僕等の人生は過ぎてゆく。だが、何に対して過ぎてゆくと言うのか。過ぎて行く者に、過ぎて行く物が見えようか。生は、果たして生を知るであろうか」
この死生観は、恐らく小林のそれと深く重なり合うものであろうと思われる。
そしてこの一文は、K626の『レクイエム』の冒頭に言及して閉じられる。
*以上は読書ノートですから、私の主観は排し、もっぱら小林の主張に沿うべく書かれたものです。