米中間選挙、投票日から一週間経ってやっと上院の民主党の辛勝が報じられたが、下院の方は当初の共和党のリードが保たれるのか、それとも民主党の追撃がなるか、未だにわからない。こうした激戦の中にこそ選挙の醍醐味がある。
そこへ行くと日本の選挙は気が抜けたソーダ水のように味気ない。投票締め切り、開票開始と同時に、バタバタバタッと当確が各メディアによって報じられ、そこでもう大勢は決してしまう。若干の激戦地で結果は夜半に及ぶが、既に大勢は決まっている中でのささやかなエピソードでしかない。
アメリカの選挙結果は当然アメリカ国内にとっての重大事だが、同時に20世紀以降の世界現代史にとっての重要なファクターでもある。政治、経済、文化、軍事にわたって、いま、アメリカを抜きにして世界の未来は語り得ない。
そんなことを前提としながら、岩波新書の『アメリカとは何か 自画像と世界観をめぐる相克』(渡辺 靖)を読んだ。
とても面白かった。アメリカそれ自体の現代史が、まさに今回の選挙のように錯綜する要因を必然的に孕んだものとしてあることを理解する一助になるのだ。それはまさに、日本のようなお題目としての民主主義(であるがゆえに常に疑似民主主義でしかなかったのだが)とは違った、血で血を洗う局面をも含んだそれへの試行錯誤としてある民主主義の歴史、それこそがアメリカなのだ。
「アメリカ民主主義」については19世紀にフランスから派遣されてアメリカのそれをよく理解していたトクヴィル(この人については私はあまり勉強していない)、そして、フランス革命やロシア革命よりアメリカ革命を高く評価したハンナ・アーレントを思い出す。
両者は共に、小さな集落でのミーティングからタウンミーティング、シティミーティング、州単位のミーティングと経由する共同体の意志決定のプロセスを大きく評価している。
それらが、トクヴィルやアーレントにとってなぜ評価されたのだろうか。それは、こうした統治の形が、広い領地と多くの領民をもつ国家の殆どが専制君主であった時代に、新しく生まれた実験的な形態の国家だったからである。
アメリカは、これまでの自然発生的な国家とは異なり、民主制の明確な理念を掲げたいわば、実験国家として船出をしたのだった。
そしてこの実験過程はいまも終わってはいないといえる。ヨーロッパ諸国は君主制から共和制へという流れに基本的に沿ってはいるが、それぞれに逆行的な要因をも孕んでいる。
そして、アメリカ以外の大国、ロシアや中国は、その名称や国の運用形式には共和制や民主制を思わせる面をもってはいるがが、実質的には専制国家そのものである。
中国の首脳筋には、広大な国土と多様な民族を束ねてゆくのにはそうした形態しかとりえないのだと率直に語る向きもあるようだ。そして、専制に見えるそれらの措置が、最大多数の最大幸福のためやむを得ない措置なのだともいう。
その意味では、アメリカはそうではない道を模索する実験国家であり続けているといえる。
ただし、その実験過程も容易ではない。高度な資本制ゆえの富の一極集中、それへの批判は民主党内ではサンダースなどの社会主義的潮流を産み、共和党内ではトランプ流のポピュリズムを産み出す。それらは、両党の動向に様々な波紋をもたらし、かつ、アメリカのありようを左右する。
そのアメリカの国際的な動向にはかねてより二つの方向がねじれをもって存在している。第一次世界大戦時がそうであったような伝統的な孤立主義、そして、第二次世界対戦後そうであったような「世界の警察」を標榜する介入主義、これらは、既に見た国内での政治と密接に関連しながら世界へと関与している。
グローバルな時代、アメリカがどちらを選択するかはもちろん世界史的な影響力をもつ。
前世紀末の冷戦終了後、もはや実質の資本主義しか存在しない現実において、「歴史は終焉した」ともいわれた。しかし、引き続き世界史的矛盾は存在し、新たな冷戦の戦線は築かれたと思う。
その一方は、一応民主主義をその政治体制とするいわゆる西側であり、その先頭にはもちろんアメリカが立っている。
そしてもう一方は、それと明言しないまでも専制を維持し、あるいはそのもとに発展してきたロシアや中国を中心とした勢力である。
そうした新たな冷戦の一部が熱戦となって現実化した戦争がロシア対ウクライナのそれである。
日本でのこの戦争の評価や報道のされ方は、ロシア=悪、ウクライナ=善(プーチン悪い人・ゼレンスキー良い人)が圧倒的だが、国際的には必ずしもそうではない。
国連総会のロシア非難決議に対しては、賛成が九〇カ国ほどなのだが、反対ないし棄権の合計もまた九〇カ国ほどなのだ。
この戦争に対して、ロシア国内が揺れていると報じられる。それは事実だろう。しかし、一方のアメリカもまた、孤立主義の伝統がもたげ、戦場から離れる可能性を秘めてはいる。
以上、るる述べてきたのはこの書の内容の忠実な紹介では決してない。それどころかそのディティールを無視した私の感想、個人的な世界史観にすぎない。ただし、これがこの書に触発されたものであることは事実である。
この書の大枠で賛同したいのは、途中でもすこし述べたが、アメリカという国が250年前に始まった民主主義という理念に基づく人工国家の壮大な実験で、その実験はなお未完であるということだ。
そして、その未完の実験の成り行きによって現実の世界の動向が左右されるということだ。