3日のトークショーに続いての名古屋行き、最近の私の行動としては珍しい。4日は名古屋M協会主催コンサートで、「山本友重 ヴァイオリン・リサイタル Pf 河尻広之」。久々のライブを楽しむことができた。
私は演奏の良し悪しに言及するだけの耳を持ち合わせていない。ただ、媒体を介した音楽鑑賞との違いはわかる。それは音楽の身体性とでもいうべきものだろうか。奏者の身体をもって音が発せられ、それが私という身体で受け止められる。その受け渡しの中にライブの快楽がある。
演奏を堪能したあと、聴衆の中のA氏とI 氏と出会う。両氏はともに私の同人誌を読んでくれている人でもある。A氏はかつて私に、岩波新書の『世界史とはなにか』(小川幸司)を寄贈してくれたりした。
折しも私は、それによる刺激もあって、若い頃読んだ歴史学の古典、E・H・カーの『歴史とは何か』の新訳(近藤和彦:訳)の出版に際し、岩波の『思想(7月号)』で組まれた特集を読んでいたこともあり、ひとしきりその話で盛り上がる。
なお、このA氏と I 氏のご両名、近々、『世界史とは何か』の著者にして長野県の高校教諭である小川幸司に会いに、長野県へお出かけとの由、その強靭な探究心とフットワークにただただ敬服の至り。
私は演奏の良し悪しに言及するだけの耳を持ち合わせていない。ただ、媒体を介した音楽鑑賞との違いはわかる。それは音楽の身体性とでもいうべきものだろうか。奏者の身体をもって音が発せられ、それが私という身体で受け止められる。その受け渡しの中にライブの快楽がある。
演奏を堪能したあと、聴衆の中のA氏とI 氏と出会う。両氏はともに私の同人誌を読んでくれている人でもある。A氏はかつて私に、岩波新書の『世界史とはなにか』(小川幸司)を寄贈してくれたりした。
折しも私は、それによる刺激もあって、若い頃読んだ歴史学の古典、E・H・カーの『歴史とは何か』の新訳(近藤和彦:訳)の出版に際し、岩波の『思想(7月号)』で組まれた特集を読んでいたこともあり、ひとしきりその話で盛り上がる。
なお、このA氏と I 氏のご両名、近々、『世界史とは何か』の著者にして長野県の高校教諭である小川幸司に会いに、長野県へお出かけとの由、その強靭な探究心とフットワークにただただ敬服の至り。