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尾張瀬戸へ行く・3 「家」は守られたのか・・・・

2024-06-23 00:38:19 | 想い出を掘り起こす

 姉と私は、その実母を亡くし、家系を守るため実父が実母の妹、つまり私たちの叔母と再婚するに当たり、そのための余計者としてそれぞれ養子に出されたことは述べてきました。それらの舞台が瀬戸と大きな関わりをもっていたことも述べました。
 ではその、三河武士の末裔というささやかな誇りをもった家系は、姉と私を排除してリセットし、あの戦中戦後の混乱の中で守られたのでしょうか。

     

 写真はすべて瀬戸蔵ミュージアムでのもの。ここでは陶磁器の製造工程と瀬戸での土器以降の陶磁器生産の歴史を、出土したものや現代の製品を網羅して展示している。

 家系などという概念に全く関心をもっていない方も多いでしょう。私もそうなのです。しかし、時代もあるでしょう、私の幼かった戦前には、まだ家系の維持というのは没落した士族などを中心に生きていたのです。
 家系の今日的意義は、国会議員の二世、三世、四世・・・・や企業の創業者の系譜の中にこそその特権的利害を伴って重要視されているのかもしれません。

     

 実父が叔母と結婚し、リセットされた「家」のその後をみてみましょう。
 新しい家には、新しく一男一女が授かりました。私の義弟と義妹です。これで新しい家は守られたかのようでした。
 しかし、時代は戦争の真っ只中です。実父もまた赤紙一枚で戦地へとられました。しかも、出征先がよくありませんでした。ビルマ、いまのミャンマーです。ここは詳細は述べませんが、もっとも愚昧な作戦といわれたインパール作戦の舞台で、いたずらに数万を超える死者を排出したのですが、その死者の一員が私の実父でした。

     

 新しい家構想は、こうして戦争のためにあっけなく崩れたのですが、さらにその後があります。二人の子どもをかかえて戦争未亡人になってしまった叔母ですが、戦時中は「英霊の妻」として何らかの支えがあったようなのです。しかし、いざ敗戦となった瞬間、なんの支えもないまま、混乱した巷間へ親子三人が放り出されたのでした。

 あれほど、家、家、といって叔母を後妻に導いた親戚筋も、自分のことに精一杯で、誰も支えてはくれませんでした。親子三人の生活はすべて叔母の肩にかかっていました。
 叔母は、体を売ること以外のことはほとんどしたようです。そして、最後にたどり着いたのが、亜炭鉱の鉱山労働でした。当時亜炭は、瀬戸での焼き物の火力など広い需要があったのでした。

         

 叔母は、亜炭鉱の炭住長屋に住まいし、男並みの労働で子どもを養い続けたのですが、男女の体力差、出来高制のような賃金体制の中では苦戦の連続でした。
 そんななか、何やかやと叔母を支えてくれる同じ炭住の男性労働者が現れました。叔母は彼とのしばらくの付き合いの後、再婚を決意します。彼は独身にも関わらず、二人の子持ちの叔母との結婚に同意してくれたからです。

     

 これらの経緯を知ったのは40歳過ぎに姉と再会し、その姉を通じて叔母と合った折のことでした。その折、叔母はもちろんその男性の妻であり、その男性との間に別途、男の子をなしていました。
 私にいわせれば、それは「めでたしめでたし」なのですが、「家を守る」に固執していた親戚筋には「極めて重大な問題孕みの事態」であったようで、そんな叔母の決断への隠然たる非難や陰口が絶えず、叔母の一家は一族の中からはいささか異質な存在とされてしまったのです。
 なぜでしょうか。それは次回に譲ります。

コメント
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