昨日、午後からの所用の帰り、近くの鎮守様の境内を横切って帰る。
全体にはちょっと暗いところだが、紅葉がポイントのように点在している。
寒さがいや増しに増し、身も心も冷たい(ありふれた言い回し…笑)が、視覚の明るさはそれらをいくぶんか和らげてくれる。
気がつけばもう師走。年齢を重ねると年月の推移が早くなるのは、子供の頃や若い頃と違って、感動し立ち止まることが少ないからだと「チコちゃん」がいっていたが、そうなのかもしれない。
師走といっても、この歳、さほど用件もないのだが、それでも通常の月にはない要件が2,3はあって、それらが済まないうちには落ち着かない。
鎮守様を出て帰途につく。
もう何十年も忘れていた歌が頭に浮かぶ。周りに人がいないのを幸い、少し口ずさんで見る。子供の頃の感傷が蘇ってくるようだ。
帰宅し、You Tube で改めて聴いてみる。歌詞もメロディも単純そうだが、歌詞の日本語のイントネーションとメロディとが幸せな結合を見せていて、その調和が美しく、かつ両者の出会いによる深みがあるように感じた。
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言語論的転回以降、その一端として、単なる伝達機能にとどまることのない言葉のもつマテリアルな面が強調されたりするが、その言葉のもつイントネーションもまたマテリアルの一端を担っているのだろうと思う。だからそれは詩になり、音楽にのることとなる。
わかりにくいことを書いてすみません。言語論的転回というのは二〇世紀後半の現代思想に大きな影響を与えた言葉に対する考え方なのですが、それは多方面にわたります。
私がここで取り上げたのは、そのうちの、言葉というのは単に何かを指し示す道具であるばかりではなく、それ自体が一つの力量をもつということです。
わかり易い例としては、詩はさまざまな言葉を、画家がさまざまな色をキャンバスに置き何かを表現するように並べられたものですが、それはなにかの説明文を越えて美的な境地へと私たちを誘います。
もっとぶっちゃけたはなし、演歌でよく使われるフレーズの「北」「雨」「港」などなどが、単に、方角、天候、場所の特定以上の力で私たちに迫ってくるようなものです。
もちろんこれは、世界の、どこでも、いつでもということではなく、特定の場所での、特定の時代のはなしです。
ですから、上に上げた演歌の例も、アメリカ人には通用しませんし、今どきのロックやラップ世代の若者にも通用はしません。
これらの事実と関連して「岐阜のみやにし」さんがおっしゃる、その言葉の意味範囲に関しての個人差は当然あるものと思います。
感覚を言語で表現できるかどうかなど難しいところですね。私は長年「分かる」とはどういうことか何人かの人に尋ねましたが答えがいただけません。発せられたり、書かれたりした言語が、私の持つ言語と完全に一致していることなどないのではと思うとますます分からなく(笑い)なります。他者が言う「赤い」と私の「赤い」とはずれがある以上「分かる」と言えるかどうかなどと変な事を考えています。変なコメントですみませんでした。今きたこの道かえります・・・・