なんでこんな本を読んでしまったのだろう。
後悔しているわけではないが、そのもって行き場のないような読後感に打ち圧しがれている。
必要があって論文調のものばかり読んでいるのだが、それが続くと自分の感受性のようなものが妙に偏って、概念先行型というか、感性の鈍麻というか、そんな状態に陥るのではないかとふと思ったりする。
そんな微かな思いをもち、いつものように図書館の新着コーナーをチェックしてたとき、この書が目に留まった。韓国の女性作家だという。つい最近、どこかの書評コーナーで、近年の韓国女性作家の作品は見るべきものが多いとあったのを思い出した。
それで借りてきたのだが、結果としては、一気に読ませる力がある作品ではあった。しかし、その内容はなかなか重く、消化しきれないものが残っている。
意外なのは、著者は30代の女性なのだが、その主人公が男性だということで、しかも、性に関する微妙な表現もみられるし、読んでる途中でそれが女性の手になることをまったく感じさせないように話は進んでゆく。
タイトルの「中央駅」は、おそらく再開発が進んでいるソウル駅周辺で、主人公の男性は、キャリーケースを引いてふらりとそこへ登場し、その界隈にたむろするホームレスたちに溶け込んでゆく。この一団の中で最も若いと思われるこの男の過去や、彼がどうしてここに現れたのかは一切述べられることはない。
彼のみならず、登場人物は名前をもたず、ただその特徴においてのみ差別化されている。
彼が地下道にねぐらを見つけて体を休めているとき、「女」が現れ、寒いといって彼に体を擦り寄せるようにして共に睡眠を貪る。が、目覚めたとき、彼の持ち物の全てと思われるキャリーケースは女とともに消えていた。
彼の執拗な追求によって、やがて「女」は見つかるが、キャリーケースはもはやない。彼は女をぶちのめすのだが、彼女は詫びとして「一回あげる」といって自らの体を開く。
しかし、これは序盤でしかない。それを契機とした「俺」と「女」の関わりが始まるが、彼女もまた、かつて結婚していて子供もいながらここへ流れ着いたということが示唆されるのみで、「俺」よりは年上ということを除いてその全貌はまったくわからない。
それのみか、彼女の挙動の端々、昼と夜とのその変貌ぶり、などなどは「俺」にとってもまったくの謎で、他なる者とさえいえる。
その意味では、「俺」も謎に満ちている。若いし、それなりの能力もありそうだし、一歩踏み切ればここから抜け出せるのに、そして、実際にそうしたきっかけとなる援助の手も差し伸べられるのだが、それに従うことはなく、日銭の入る仕事は若干するにしても、結局はこの世界へと舞い戻ってくる。
その他の登場人物もほぼ同じである。日銭が入れば、集まって酒盛りをし、宵越しの金は持たない。彼らにとっては、ここのみが世界であるかのようで、実際にこの小説の舞台自体が、一部の例外を除いて、この狭いエリアを離れることはない。
そしてこのエリアで、虚飾を剥ぎ取られた人びとの、赤裸々ともいえる生が展開される。それはあたかも、J・アガンベンいうところの、ビオス(社会的・政治的生)を奪われ、ゾーエー(生物的な生)のみを生きるホモ・サケルのように、まさに「むき出しの生」が生きられている。
しかし、この書を読み続けるうちに、不思議な逆転現象が生じる。この大都会の片隅で例外的に生きられているこの世界、そちらの世界の方がなんだかリアリティがあって、彼らを石ころでもみるように一瞥し足早に通り過ぎてゆく「通常世界」が、まるで単なる額縁の縁取りのようにその実態をあまり感じさせなくなってゆくのだ。
そんな状況の中で、「女」と「俺」の饐えたような関係が続く。
どう考えたって、その終焉は救われるはずがないのだが、それを生きている間は生き切らねばならないというように彼らは生きてゆく。やがて、それがプツンと切れることを予測できるのはそれを外部から覗き見している私たち読者のみだ。
これを、新自由主義的価値観からこぼれ落ちた底辺を描いた社会小説と読むこともできよう。事実、駅周辺の再開発のため、地上げ屋の暴力をも伴った嫌がらせや妨害工作が途中にもでてくるし、それに雇われるのは「俺」たちなのであって、ここには、貧困者たちが対決させられる残酷な情景がある。
「俺」と「女」がやっと見つけた屋根のある部屋も、再開発のため大家が手放すと決めたため、水も火も灯りもない廃墟と化してしまう始末だ。
この小説のラストも、そうした地上げ屋に雇われた「俺」が、まだ行方もなく居座っている居住者を、暴力的に追い出すシーンで終わっている。
「果てしなく続く夜の中で朝を待つ。風が大きな音を立てて狭い路地を吹き抜けてゆく。冷たい空気が目にしみる。誰かが後ろのほうで凍てついた塀をドンドンと叩く。並んだ者たちが一斉に壁を叩きながら叫び声をあげる。壁は今にも崩れそうだ。俺はヘルメットのシールドを下げ、白み始めた空を見上げる。」
しかし、そうした社会派的な告発小説としてのみこれを読んだのでは、先に見た、ホモ・サケルとして足掻きながら生きてゆくことの実像をかえって見失うだろう。
彼らとは異なると思われる通常世界、つまり、私たちの「こちらがわ」で、私たちはゾーエー(生物的な生)を抜け出したビオス(社会的・政治的生)としての生を本当に生きているのだろうか。
消費社会が次々と押し付けてくる虚飾の担い手として、その日々を過ごす私たちに、否、その虚飾を剥ぎ取ったところに、果たしてビオスとしての尊厳ある生き方があるといえるのだろうか。
著者 キム・ヘジン
もちろん、これもひとつの視点にしか過ぎない。キャリーケースを失った代わりに得た「女」、それをも失った「俺」、身分証明を、自分の名を、詐欺グループらしい連中に売り、自分の未来をも売った「俺」、それでも生きる「俺」。
もはや、絶望という言葉もそのリアルさを失ってしまうような境遇の「俺」。
それでも生は、それを突き抜けてゆくのだろう。たぶん。
*なお、作者のキム・ヘジンをネットで検索すると、フィギアスケートの選手、女優などがでてくるが、そのいずれもが別人。その略歴は以下。
1983年、大邱生まれ。2012年に短編小説「チキンラン」で文壇入りし、2013年に本書『中央駅』で第5回中央長編文学賞受賞。2018年に『娘について』(古川綾子訳、亜紀書房、2019年)で第36回シン・ドンヨブ文学賞受賞
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