いつも定点観測(というほど大袈裟なものではないのですが)をしている南京ハゼの冬の姿です。
前回は紅葉のまっただ中で、以下に載せました。
http://pub.ne.jp/rokumon/?daily_id=20101125
それから半月後の姿ですが、もちろん葉はすべて落ち、果実についていた褐色の果皮もなくなり、ただ白い実がなっているのみです。

この実から蝋が採れるということは何度も書きましたが、改めて見るとなるほどと思えます。


美術館の中に、もう一回りも二回りも大きい南京ハゼの樹があって、それもマークしているのですが、こちらの方もまるで真珠を散りばめたように多くの実を付けていました。

今年の気候は、紅葉にはあまりよくなかったと思いますが、南京ハゼにはよかったようです。
最後の写真は、別の樹に止まっていたキジバトのつがいです。
彼らはどうしてあんなに自然に屈託もなく寄り添えるのかが羨ましくなりました。

ア、バカなことを考えてしまいました。
「自然に」って、彼ら自身がもともと自然なのです。
自然から逸脱し、過剰を抱え込んだのは私たち人間の方なのですから。
人間中心主義への反省とは、自然界の中で人間こそ過剰や逸脱をともにしなければ生きることが出来ない欠陥をもった動物であることを知ることでしょうね。
前回は紅葉のまっただ中で、以下に載せました。
http://pub.ne.jp/rokumon/?daily_id=20101125
それから半月後の姿ですが、もちろん葉はすべて落ち、果実についていた褐色の果皮もなくなり、ただ白い実がなっているのみです。

この実から蝋が採れるということは何度も書きましたが、改めて見るとなるほどと思えます。



美術館の中に、もう一回りも二回りも大きい南京ハゼの樹があって、それもマークしているのですが、こちらの方もまるで真珠を散りばめたように多くの実を付けていました。

今年の気候は、紅葉にはあまりよくなかったと思いますが、南京ハゼにはよかったようです。
最後の写真は、別の樹に止まっていたキジバトのつがいです。
彼らはどうしてあんなに自然に屈託もなく寄り添えるのかが羨ましくなりました。

ア、バカなことを考えてしまいました。
「自然に」って、彼ら自身がもともと自然なのです。
自然から逸脱し、過剰を抱え込んだのは私たち人間の方なのですから。
人間中心主義への反省とは、自然界の中で人間こそ過剰や逸脱をともにしなければ生きることが出来ない欠陥をもった動物であることを知ることでしょうね。