それにしても紛らわしいタイトルだなぁ。まるで『源氏物語』が挫折したみたいですが、挫折したのはほかならぬこの私。その経緯は以下のとおりです。
予め入院しますと予告してあったので、親しい友人などから「こんなふうに過ごしたら」というアドバイスを頂いたりしたのですが、結局私が選んだのは、日頃、「積読」であった書を読破しようということでした。持参したのは、もうずいぶん前に入手したまま放ってあった『源氏物語』(与謝野晶子:訳 角川文庫版)なのですが、文庫本といっても馬鹿になりません。上・中・下と三巻に分かれていて、それぞれが六五〇ページ以上、合計約二千ページという大著なのです。
初日は手術前の検査などで、その空き時間や夜など、順調に進むことができました。しかし、手術日の午後以降は、手術時間、その後の麻酔とそれが切れた後の痛みなどなどがあってなかなか読み進めません。その翌日は、多少読み進むことが出来ました。結論をいいますと、結局読み終えたのは約三〇〇ページ、全体の七分の一ほどでしょうか。
ようするに、これを全部読み終えるのには、もっと重い病に罹り、長期の入院が必要であることがわかりました。
これだけしか読んでいないので、あれこれいう資格はまったくないのですが、美貌と才能(?)をかさにきた源氏の女性漁りはかなりしつっこく強引で、時には家宅侵入や未成年誘拐、強姦まがいのものもあり、歌など贈って相手の気を引くという優雅さばかりではないことがわかります。
その言動にも、ルッキズムはもちろんミソジニー(女性蔑視)的なところもあり、訳文では「恋」や「愛」などが頻繁にでてきますが、まあ、現代のそれではないようです。
私自身、戦前のモラルを多少引きずっていたり、あるいはそれを時代のせいにするにはいささか卑劣な自分自身のだらしなさもあって、その潔白を前提とした源氏への倫理的批判などは正直いってこそばゆいところがあるのですが、これを書いた自身女性である紫式部が、どのような思いで筆を進めたのかも興味のあるところです。
まあ、いずれにしても千年前の話ですから、今どきの倫理観を振りかざすのも野暮というものでしょう。それに、この物語自体、源氏が散々放蕩をし尽くした末、結局それらを無常に感じてその態度を転じてゆくということらしいのですから、たかが七分の一を読んだぐらいでとやかくいうべきでもないのでしょうね。それにしても、無常を感じるまでに褥をともにした女性の数が多すぎるのではとも思ってしまいます。
その点、私なんかはたかだか・・・・(以下自粛)。
さて、残りの『源氏』はどうしましょう。娑婆へ帰ってくると、もっとリアルなものの読書にも迫られますから、これに集中するわけにも行きません。まあ、いろんな書の間に、挟んで少しずづ読み進めるか、ほんとうにもっと大きな病での長期入院の際になるのかもしれません。