昨日の9月1日は関東大震災100周年の日であった。
この地震による死者、行方不明者数は10万5千人ほどといわれる。その悲惨さは目に余るものがあるが、さらにそれに拍車をかけた事実がある。それは、6千人余といわれる朝鮮人、言語障害者、地方出身者に対する暴行致死事件である。
朝鮮人が暴動を起こす、井戸に毒を投げ込んだなどの流言飛語が飛び交い、その防衛と称して各地に自警団が組織され、通りかかる人を捕らえては、「15円50銭」と言わせ、それがうまくいえない人を朝鮮人とみなして虐殺したというのだ。
こうした事実を踏まえ、私が気になった事柄を2、3述べておこう。
ひとつは東京都知事小池百合子のの虐殺容認の態度である。彼女は就任以来7度目となる今年も、朝鮮人虐殺追悼式への追悼文の送付を拒否した。「三国人」などという差別発言を繰り返していたあの石原慎太郎ですら、その知事時代には毎年追悼文を発表していたにも関わらずだ。
小池の言い分はこうだ。彼らへの追悼は、関東大震災での犠牲者全員への追悼分に含まれ、すでに済んでいるというのだ。ようするに、地震に付随した家屋倒壊や火災による犠牲者と朝鮮人虐殺は同じく自然災害に過ぎないというのだ。
結局彼女は、こうした場合、朝鮮人は殺されて然るべきだとその虐殺を肯定し、その再発を防ぐ気もないということになる。
6千人余というのは決して少ない人数ではない。行方不明者数10万5千人のまさに6%が人為的な殺人事件だったわけである。
もうひとつは、昨日の「朝日新聞」を見ていての感想だ。さすがに何箇所かで朝鮮人虐殺に触れ、それに至る流言飛語を防ぐためにといった記事も書かれている。
だがちょっと待てよ、と思ってしまう。当時のメディア、とくに新聞の果たした役割についての言及はまったくないのだ。
1923年時、ネットやテレビはむろんなく、ラジオ放送すらなかった(放送開始は25年)。ようするに、その時代、唯一の大衆的メディアは新聞だったのだ。
では、新聞はどう報じたのか。流言飛語の尻馬に乗って、それを煽るように広めた新聞もけっこうあった。少なくとも、新聞はそれを抑制する役割をほとんど果たしてはいない。朝日はそれらについてちゃんと自己検証すべきではないだろうか。
最後にもうひとつ。あの虐殺事件は決して流言飛語に惑わされた愚かな群衆による犯行に還元してはいけないということだ。それは、1919年の3・15独立運動に対する日本政府の対応が、朝鮮人の暴徒による暴動と断じ、新聞などのメディアもそれに従っていたからだ。朝鮮人=暴徒、暴動を起こす連中ということで、震災時の流言飛語を裏付ける素地は当時の日本の公式的普遍的な立場ですらあったのだ。