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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

久しぶりの名古屋駅西口と「駅裏」時代の思い出

2024-10-24 00:17:24 | 想い出を掘り起こす

 久しぶりの名古屋駅西口である。久しぶりといっても何年ぶりかというほどではない。こちらにある映画館、名古屋シネマスコーレには毎年何回かは来ているからだ。しかし、最近では映画を見る機会が減ったこともあり、一年近く来ていなかったかもしれない。

 それにかつては、わたしたちの同人誌をわざわざ店においてくれるママさんがやっていた飲み屋があって、映画を見ないときでも岐阜への帰りに時間の余裕がある折にはよく寄ったのだが、その店も閉店してもうかなりになる。
 今回は映画を観るためではなく、月イチで参加している読書会の会場がたまたまこの西口側になったからだ。

 西口近辺は今、工事箇所がやたらに目立つ。ほとんどが私の生きているうちは運行しないであろうリニア新幹線の関連工事だ。
 それらを尻目に、読書会の会場へ歩を進める。

      

 私が初めてこの地域に足を踏み込んだのは六十数年前に岐阜から名古屋の大学へ進学した折であった。その頃この地域は「駅裏」と呼ばれていた。そして先輩たちは口を揃えて言った。「駅裏の飲み屋は安いが物騒だから行かないほうがいい」と。

 この地区が「駅裏」から西口、あるいは太閤口と呼ばれるようになったのは20世紀の終わりごろだろう。その時期は、日本海側を「裏日本」と呼ばなくなった頃とほぼ同一と思われる。
 ただし、こうした呼称は全国的なもので、JR岐阜駅でも、もっぱら私が利用する南口はかつては「駅裏」と呼ばれていた。その駅裏近くの実家で育った私の記憶では、亡父への年賀状が「岐阜市駅裏 ◯◯◯◯様」で届いたこともある。

 名古屋駅の西口に話を戻そう。「駅裏=西口へ行くな」という先輩たちの戒めには根拠がないわけでもなかった。「駅裏」は当時、東京の山谷、大阪の釜ヶ崎(今の西成あいりん地区)と並んで日本の三大スラム街の一角を占め、治外法権の場所といわれていたからだ。

 実際のところ、駅の表側=東側=桜通口と比べるとその環境の差はとても大きかった。東口も現在のように高層ビルが立ち並ぶほどではなかったが、そこそこ、大都市の玄関口をなしていたのに比べ、「駅裏」はほとんどがいまだ未舗装で、じっとりした路地に闇市とドヤ街が広がり、夜ともなるとバラックのような店や屋台に赤ちょうちんが灯り、客を誘っていた。

 ちなみに当時(1960年前後)はどこの街でも屋台は健在で、名古屋でも今池界隈の屋台街、栄から柳橋近くまで続く屋台街は隆盛を極めていた。それはまた、バイト代が入ったときにやっと飲める私の世代にとって、その価格帯からいっても不可欠な存在だった。
 それらを、64年の東京五輪を契機にして、お馬鹿な政府が「諸外国に恥ずかしいいから」という理由で全国一律に禁止してしまったのだ。

      

 それはさておき、そうした屋台でやっと飲める私たちにとって、さらに救いは駅裏の飲み屋の安価さであった。「駅裏の店で使ってる肉は犬や猫だから安いのだ」という悪口も耳にしたが、安価で口に入るものがありそれを肴に飲めるというだけでもうじゅうぶんありがたかったのだ。
 なお、今のアメリカの大統領選で、トランプが移民たちは犬や猫を捕らえて食べていると演説したというのを聞いて、吹き出しそうになった。

 しかし、やはり「駅裏」はなんとなく怖かった。だから、飲み屋にしてもあまり駅から離れたところまでは行かず、何かあったらすぐ駅へ逃げることが出来るように身構えていた。その意味では当時の私は「駅裏」への偏見から自由ではなかったともいえる。

 写真はその駅裏改め西口から見た名古屋駅の現在の姿である。
 明るい方は読書会へ出かける行きがけの撮影であり、暗い方は読書会とその後の懇親会終えてからのものだからその時差は五時間ほどである。

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