夜中に読んだのは【「ココロのため息」がスーッとなくなる本】。
図書館でタイトルにつられて手に取った。
エネルギーがゼロになった時に一番の特効薬は「(同じように落ち込んでいる)誰かを励ます(癒す、安心させる)」ことなのだそうである。与えたことで相手に感謝され、それが自己肯定感につながるからだそうだ。
この本はその励ます時のポイントを教えてくれる本である。
実際にこのような言葉が良いと言う具体的なことまで書かれている。
自分が悩んでいる人の自己分析にもなるし、励ましたい人が身近に居る人にも参考になる本だと言える。
ただ難を言えば、この本を読んだだけだと、「あぁそうか、困った人にはこのような言葉(接し方)を言えばいいんだな」と記憶することになってしまう。体験的にその理由が理解できないと、相手には伝わらないこともあるのではないか、と思う。
私がそこを補うには「経験」しかないのだろう。
相手と向き合って、失敗したり時にはやけになったりキレたりしながら、自分で(まったく今までの人生と同じように)転んでアザを作ってみたり、痛い思いをしながら、「あぁこうした方が良かったのか。」と積み重ねて分かるものなのだろう。
どうして自分はこんなに運の悪い人間なのか、と何百回も思ってきたけれど、単純に頭が悪いのだと思う。
他の人はこう言う本を読んだだけでフンフンなるほど、こう言う事を言えばいいのよねと思えるところ、例えば普通の人なら料理本を読んで書かれている通りに調味料の分量を合わせて美味しくできる料理が、私の場合は何度も失敗して経験を積まないと、まともな料理にならないようなものだ。
でも、回り道しても最後に行きつくゴール(料理の完成度)は同じかもしれない。
もしかしたら経験値がある分、完成は確かかもしれない。
・・・・と、自分で自分をなぐさめよう。
今日考えたことはいろいろあって、一つはどうして自分はkekeから感謝されないのか、と言うことである。
たとえどんなに頑張って家事をしようが、学費を納めて来ようが、全て勝手に私がしてきたことだったと今は思う。
「大学に行くぐらいは当たり前」と言う概念を植えつけたのが私だからである。
もっと自由に選択できたら、kekeはおそらく大学には行かなかっただろう。金が掛かるし、勉強も面倒くさいからだ。
もちろん、高校も大学も自分で選んで決めたのだが、そこには周りの環境や親の希望、本人の性格的な遠慮などもあったわけで、そこで挫けた時に自分の選択を振り返って、「これが本当の自分の望んだものではなかったのではないか」とkekeが感じたのだろう。(胸に手を当ててよく思い出せば、自分だってそう言う何をしてるのか訳のよく分からない時期はあったのである。)
私ぐらい鈍感だと、ダメなら辞めればいいからとりあえず何かやってみよう、と考える。
でも、kekeはそこだけは親子でも違うのだ。
何か動いて、また挫けるのがイヤなのだ。
何故なら心が傷ついてしまったから。
こうして一つ一つ、あぁそうかもしれない、こうかもしれない、と考えてみるのだが、まったく方向性は見えて来ない。
その上あちこちに地雷が埋まっている。
地雷とは「これは全て自分が悪かったのではないか」と言う懺悔と悔いの地雷である。
子供への懺悔と、長い年月と大切な財産も費やした上での失敗と言う悔いである。
自分で思っているから、人に言われれば何倍も腹が立つ。
言われなくたって、自分が一番感じているからである。
>言われなくたって自分が一番
でも、kekeだって、きっと同じに違いない。。。
そんな状況のフォローしていくのは親しかいないのかもしれない。
結果が出るまで、何が正しいのかどうかも分からない。
いつになったらその結果が出るのかも分からない、一生叶わないかもしれない。
こんな変わるか変わらないか、解決がいつになるか分からないようなものに、つきあっていけるのは仕事にしているか、親しかいないのではないか。
この本には「安全地帯」と言う言葉が出てくる。
kekeが小さい頃、子育てに泣きたくなった時や困った時は母が居た。
ぜんそくで入院が続いた時は本当に電話口で泣いた。
母は「何をしろ」とも言わなかった。
そうだ、一つだけ言ったのはスイミングをさせたらどうだろうと言ってお金を出してくれた。
あとはひたすら話を聞いてくれた。
もしかしたら「大丈夫大丈夫」といつも言ってくれていたのかもしれない。
何を言われたのかよく覚えていないけれど、とにかく母は安全地帯だった。
困った時に母に電話すれば間違いがなかった。
要求はせず受け止めてくれたからかもしれない。
それに比べて今の私はどうだろう。
子供が困っても受け止めるどころか、「何故そうなんだ」「ああしたらどうだ」「こうしたらどうだ」といろんな要求ばかりしているのである。
これは安全地帯ではない。
私には「安全地帯」はないかもしれない。
頼ってしまえば人は迷惑だろうし、言えば傷つく場所しかないかもしれない。
でも、自分は子供の「安全地帯」になれるようにしよう。
自分にはないから、自分だったらこう言う場所があったらいいな、と言う場所を考えていけばいいんだ。
そう考えれば、難しくないぞ。
ほら、少しは前向きになったよね、私。
図書館でタイトルにつられて手に取った。
エネルギーがゼロになった時に一番の特効薬は「(同じように落ち込んでいる)誰かを励ます(癒す、安心させる)」ことなのだそうである。与えたことで相手に感謝され、それが自己肯定感につながるからだそうだ。
この本はその励ます時のポイントを教えてくれる本である。
実際にこのような言葉が良いと言う具体的なことまで書かれている。
自分が悩んでいる人の自己分析にもなるし、励ましたい人が身近に居る人にも参考になる本だと言える。
ただ難を言えば、この本を読んだだけだと、「あぁそうか、困った人にはこのような言葉(接し方)を言えばいいんだな」と記憶することになってしまう。体験的にその理由が理解できないと、相手には伝わらないこともあるのではないか、と思う。
私がそこを補うには「経験」しかないのだろう。
相手と向き合って、失敗したり時にはやけになったりキレたりしながら、自分で(まったく今までの人生と同じように)転んでアザを作ってみたり、痛い思いをしながら、「あぁこうした方が良かったのか。」と積み重ねて分かるものなのだろう。
どうして自分はこんなに運の悪い人間なのか、と何百回も思ってきたけれど、単純に頭が悪いのだと思う。
他の人はこう言う本を読んだだけでフンフンなるほど、こう言う事を言えばいいのよねと思えるところ、例えば普通の人なら料理本を読んで書かれている通りに調味料の分量を合わせて美味しくできる料理が、私の場合は何度も失敗して経験を積まないと、まともな料理にならないようなものだ。
でも、回り道しても最後に行きつくゴール(料理の完成度)は同じかもしれない。
もしかしたら経験値がある分、完成は確かかもしれない。
・・・・と、自分で自分をなぐさめよう。
今日考えたことはいろいろあって、一つはどうして自分はkekeから感謝されないのか、と言うことである。
たとえどんなに頑張って家事をしようが、学費を納めて来ようが、全て勝手に私がしてきたことだったと今は思う。
「大学に行くぐらいは当たり前」と言う概念を植えつけたのが私だからである。
もっと自由に選択できたら、kekeはおそらく大学には行かなかっただろう。金が掛かるし、勉強も面倒くさいからだ。
もちろん、高校も大学も自分で選んで決めたのだが、そこには周りの環境や親の希望、本人の性格的な遠慮などもあったわけで、そこで挫けた時に自分の選択を振り返って、「これが本当の自分の望んだものではなかったのではないか」とkekeが感じたのだろう。(胸に手を当ててよく思い出せば、自分だってそう言う何をしてるのか訳のよく分からない時期はあったのである。)
私ぐらい鈍感だと、ダメなら辞めればいいからとりあえず何かやってみよう、と考える。
でも、kekeはそこだけは親子でも違うのだ。
何か動いて、また挫けるのがイヤなのだ。
何故なら心が傷ついてしまったから。
こうして一つ一つ、あぁそうかもしれない、こうかもしれない、と考えてみるのだが、まったく方向性は見えて来ない。
その上あちこちに地雷が埋まっている。
地雷とは「これは全て自分が悪かったのではないか」と言う懺悔と悔いの地雷である。
子供への懺悔と、長い年月と大切な財産も費やした上での失敗と言う悔いである。
自分で思っているから、人に言われれば何倍も腹が立つ。
言われなくたって、自分が一番感じているからである。
>言われなくたって自分が一番
でも、kekeだって、きっと同じに違いない。。。
そんな状況のフォローしていくのは親しかいないのかもしれない。
結果が出るまで、何が正しいのかどうかも分からない。
いつになったらその結果が出るのかも分からない、一生叶わないかもしれない。
こんな変わるか変わらないか、解決がいつになるか分からないようなものに、つきあっていけるのは仕事にしているか、親しかいないのではないか。
この本には「安全地帯」と言う言葉が出てくる。
kekeが小さい頃、子育てに泣きたくなった時や困った時は母が居た。
ぜんそくで入院が続いた時は本当に電話口で泣いた。
母は「何をしろ」とも言わなかった。
そうだ、一つだけ言ったのはスイミングをさせたらどうだろうと言ってお金を出してくれた。
あとはひたすら話を聞いてくれた。
もしかしたら「大丈夫大丈夫」といつも言ってくれていたのかもしれない。
何を言われたのかよく覚えていないけれど、とにかく母は安全地帯だった。
困った時に母に電話すれば間違いがなかった。
要求はせず受け止めてくれたからかもしれない。
それに比べて今の私はどうだろう。
子供が困っても受け止めるどころか、「何故そうなんだ」「ああしたらどうだ」「こうしたらどうだ」といろんな要求ばかりしているのである。
これは安全地帯ではない。
私には「安全地帯」はないかもしれない。
頼ってしまえば人は迷惑だろうし、言えば傷つく場所しかないかもしれない。
でも、自分は子供の「安全地帯」になれるようにしよう。
自分にはないから、自分だったらこう言う場所があったらいいな、と言う場所を考えていけばいいんだ。
そう考えれば、難しくないぞ。
ほら、少しは前向きになったよね、私。