つもりの自分とは、自分自身が自己認知している自分です。はた目の自分とは、文字通り他者が見た自分への評価、見方です。この二つが一致していれば問題はありませんが、大抵この二つの間にはズレがあり、そのズレがコミュニケーションギャップを生みます。このギャップを解消するには、つもりの自分とはた目の自分を一致させるか、つもりの自分とはた目の自分のギャップを理解した行動をするかのどちらかです。いずれにしても、はた目の自分を理解していないといけません。
自分ではがんばっている「つもり」だけど、他人から見たらがんばっているように「見えない」。
自分は自分らしくしている「つもり」だけど、他人からは常識がないようにしか「見えない」。
だとしたら、
他人から見ても分かるようにやってやるか、他人にはそう見えているんだったら、それは変えようはないのだから、仕方ないと割り切ってやっていくしかないということです。騒動になるのは、それに「つもりの自分」と「はた目の自分」の違いを理解していない時です。
スノーボーダー国母和宏とオリンピック代表国母和宏
最近の一番顕著な例は、大騒ぎになった国母選手でしょうね。本人の自己認知する自己像は、自己主張を貫くスノーボーダーというものだったでしょうが、世間はそうは見てくれませんでした。そのギャップがあの騒動だったということです。どっちが正しいとか間違っているとかではなく、コミュニケーションギャップの最たるものですね。
北野武と北野監督(ビートたけし)
北野武監督がフランスの芸術文化勲章の最高ランクのコマンドゥール勲章を受章しました。北野さんは逆に、この自分自身と「はた目の自分」の距離を常に冷徹に見ている非常にクレバーな人ですね。大物お笑い芸人の立場で映画を撮り始め、海外で映画賞を受賞したりした当初は、照れ隠しもあったでしょうが、授賞式などで場違いなギャグなども飛ばしていましたが、それに反応がないと分かると、日本では徹頭徹尾お笑い芸人の立場を貫きながら、海外では映画監督としての立場で語るなど自分自身を使い分けています。今日の受賞にあたってのコメントも、しごく常識的なものでした。
政治家小沢一郎と壊し屋・剛腕小沢一郎
もう一人、日本でよく話題になる人はこの人でしょう。この人の過去についてよく語られる離合集散も、まさに「つもりの自分」と「はた目の自分」のギャップ以外の何ものでもないような気がします。恐らく本人にしても、何故あれほど近くにいた人が離れていくのか理解できていないのではないでしょうか。だから、つもりの自分とはた目の自分を一致される努力もできませんし、そのギャップを分かった上での行動もとれないのでしょう。それと、ここまでこのギャップを大きくしている原因の一つは、あの強面の顔と東北人特有の口の重さでしょうね。あの説明不足が虚像を大きくしているのではないかと思います。
いずれにしても、別に他人におもねるということではなくて、より自分自身のパフォーマンスをあげるためには、「つもりの自分」と「はた目の自分」の違いを理解することが必要だということです。
…なんて、小難しいことを言うつもりは本当はなかったんですけどね。本当は、単に倅に対して、「一番にならなくてもいいから、野球も、勉強もがんばってほしいだけなんだ」と言ったことに対して、倅が「がんばっているよ」と言ったことに対しての、「つもりの自分」と「はた目の自分」なんですよね。早く気づいてくれ~。
今日のジョグ
午前中はまだまだ道が悪く、昼飯を食べると時間を置くので、結局夕方のジョグとなり距離は稼げませんでした。
10.5km 58分08秒