(47)
一坂崎忠左衛門殿は、いか樣の筋目にて候哉と、御尋に付、忠左衛門親清左衛門と申儀は、故越中守代、兒小姓にて、懇に召仕、段々取
立、當越中守代にも心に叶、其後家老に被申付、以後家督を嫡子に譲り致隠居候て、病死仕候、嫡子病氣に有之、知行を上候、忠左衛
門は二男にて、幼少より段々取立、懇に召仕候、只今は大かた親の身體程に、結構に被召仕候、三宅藤兵衛殿はと被尋候、藤兵衛儀は
少わけ有之者にて、定て御聞及可被成候、明智日向守殿は、先祖越中守と少すうき有之、日向守殿内に明智左馬助と申候て、名高き者
有之候、藤兵衛は其子孫にて御座候、其故樣子よく召仕候、長瀬助之進殿はと被申候、是は三齋代、小谷又右衛門と申候て名高き者有
之候、足輕に具足を着セ、武者足輕とて五十人宛仕立、右又右衛門預申候、其末にて側に召仕申候、堀尾万右衛門殿はと尋被申候、是
は堀尾山城守殿の末にて、幼少より心に叶、懇に側に召仕候、(宮村)團之進殿はと尋被申候、是も代々召仕候者の忰にて、幼少より
心に叶、段々取立結構に仕候と申候へは、度々御出被成候、扨て能御辨舌、奇麗なるおし立と、ほめ被申候、横山五郎太夫殿はと被尋
候、五郎太夫は、定て御聞及も可有御座候、島原陣場にて、板倉内膳正樣御討死の砌、祖父横山助之進と申候て、物頭仕候を、内膳正
樣え被付置候て、一所に討死仕候、其子孫にて御座候故、懇に召仕、唯今小姓頭に申付候、助之進同前に、伊藤十之允と申者も討死仕
候、其子孫只今伊藤又右衛門と申て、側に召仕候、平野九郎右衛門殿はと被申候、是も祖父以来代々能召仕候、只今小姓頭申付候、遠
江樣孫の平野にて御座候、中瀬助五郎殿はと被申候、是は御聞及も可有御座候哉、三十年斗前、摂州芥川にて、十三四歳の時、親之敵
を首尾よく討申候、少譯も有之、幼年より召仕、小姓頭勤候と、夫夫致返答候へは、扨々御大家樣と感被申候事
(48)(細川藩士)
一井上吉右衛門申候は、今度は大勢の事に候へとも、夜着ふとん小袖迄も無支、何と御大名樣にては無きかと被申候故、拙者申候は、夜
着ふとんともに、大形日野の酒たるにて候、御大名樣と申は、常々所持支ぬやうに有之候こそ御大名樣なれ、今度は富澤町にて、調ら
れると見え候、妙解院様御代に、長崎物下直の時分、段子しゅすの巻物、澤山に御調させ、何その御用のため、夜着ふとん百斗、坂崎
忠左衛門殿被申付候と、親三盛申聞候と、返答いたし候へは、是は/\と手をふり、金銀少とて笑被申候、おもふ事申さねはならぬ手
前故、前々より人に悪まれ申事も存居申候へとも、堪忍成かたく候、兎角奉公人は、大小身共に、夜日心懸、御爲と奉存候はゞ、何事
も成間敷ものにては無之候、當座能やうに、流渡りの世中口惜候、貴殿段々御奉公可被致候 身命を惜不申心懸候はゞ夫々の生質心の
付ぬは其通、心付きては流渡りの勤は、ぶしたるものゝ口惜き事、何その時、猶以無心元おもはれ候、能々心懸肝要にて候事
(49)
一廣き御座敷へ臥被申候故、寒可有之と存、拙者指圖にて、小屏風澤山に取よせ、枕元に立させ申候、或時さる仁被申候は、小屏風建候
事、不入事に候、人數見え兼申候と被申候故、拙者申候は、御尤に存候、御番人多く相詰、其上あの衆の儀に候へは、氣遣之事は有之
ましと申候へは、其分にて後々迄臥被申時建申候、助右衛門拙者え被申候、内蔵之助はさむがりにて御座候と被申候故、羽織か何そ出
し度、あれこれに色々申談候へとも、内蔵之助斗には出されぬ事にて、埒明不申候、其後同名平八に申談候は、御側衆其外大身の面々、
自分々々の心付のやうに、老人衆へ頭巾なと持参被申、夜々は御かぶり候へと、持参有之樣に有御座度候、上より頭巾可被爲拝領樣は
無之候と申談候へとも、是も埒明不申、内蔵之助は、夜臥被申候時は、茶縮緬のくゝり頭巾をかぶり、間には火燵引かつき臥被申候、
拙者儀節齋より給候新敷くゝり頭巾、外に新小袖一ツ鋏箱に入、小判も二兩ほど懐中いたし、たばこも澤山に持參いたし候へとも、わ
けて一人に出させ候事も成かたく、箇條の時小身ものは口惜候、右頭巾と金子は、十郎左衛門母儀に、魚籃の後淸休寺を頼み遣候事
家祖・細川立孝 細川忠興四男 中務大輔
宇土支藩初代・細川行孝 立孝二男 丹後守
2代・細川有孝 行孝嫡男 和泉守
3代・細川興生 有孝嫡男 伊豆守→山城守
4代・細川興里 興生嫡男 大和守
5代・細川興文 興里・弟 豊前守→中務大輔
6代・細川立禮 興文二男 和泉守 (本家相続・齊茲)
7代・細川立之 立禮嫡男 和泉守
8代・細川立政 立之嫡男 中務大輔(本家相続・斎護)
9代・細川行芬 立政・弟 中務大輔→豊前守
10代・細川立則 行芬二男 山城守→因幡守
11代・細川行眞 立則・弟 大和守→豊前守
参考:嫡男・津軽行雅、二男・毛利高徳(二女・千代子=近衛文麿夫人)
12代・細川立興 立則嫡男(廃藩に伴い官職名なし)