津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■「堀内傳右衛門覺書」‐(15)

2024-11-13 06:51:21 | 堀内傳右衛門覺書

(59)
一いつれもへ我等申候は、箇條に御懇意に仕るも、因縁ある事にこそ候へ、折を見繕ひ、追々各樣御一類中へ、御身分之樣子、委敷御咄
 可申と心掛居候、乍去御人に寄ては、何を申かと思召御方も可有哉、無心元候、いつれも樣御自筆にて、御手跡御親類中之御名を、御
 書付置被下候へかしと申たれは、皆々殊の外歡はれ、銘々親類縁者、御當所に被居候分は勿論、京伏見大阪其外所々、委敷書付出され
 候故、其分追々相尋、傳言之趣申通、始末も委敷咄し聞せ申候、
  (本條以下六條は異本に據り補ふ 59~64)
(60)
一或時、堀部彌兵衛能寝入て居たるか、矢聲をかけ被申候は、丑の刻比にても有たるか、我等寝ず番して居たるが、此聲に驚候、彌兵衛
 は老人故、若き人に劣る間敷との嗜にて、常々心張り居候故、寝入ても折々箇樣成事ありと咄被申候、彼仁は、飯後には何れも御免候
 へ、老人は足すくみ申とて、縁かわに出て、あなたこなたと歩行、足をならし申すとて、笑被申候事能く存候、其後夜四過比、潮田又
 之允、寝入候て歯切被仕候を、去仁參候て起し、はきりを強被成候、御氣色悪敷候哉と尋被申候由、以後又之允被申候は、先夜誰殿之
 被仰入念候て、被附御心被下候、私癖にて寝入候て間々歯切仕候、扨々入御念、忝くは存候へとも、扨々迷惑仕候と被申候に付、笑候
 て、夫は念入過し、御目覺御迷惑と申笑申候、惣體萬事入念勤候樣、毎度何れも承り申事にて候へとも、事によりたる儀と存候、名も
 又之丞被申聞候へとも、態と書付不申候、能く/\萬事心付候て、了簡可有之事と申候事
(61)
内蔵之助は、御預之翌朝より髪を結わせ候、殘之衆は、其儘にて二三日居申候、我等進め候へは、其後追々髪を結せ被申候
(62)      細川藩士(医家)
一十二月下旬、江村節齋老の孫成庵が、十七人之衆見度由、我等に頼候故、同道致候、其以前寒風強く、十七人の内には、手負い病人も
 ある事に而、御心元なく被思召、江村節齋老へ被仰付、見廻も被致候事故、此者は節齋孫にれ成庵と申候、各樣に御目に懸度由申出、
 幼年には奇特なる事に存候間、是へ召連候と申候へは、内蔵之助始、扨も々々と申、各側に寄、いくつに御成歟と被尋、十二歳にて候
 と答候、彼の衆へ被下置候菓子の有たるを、鼻紙に包、成庵に遣し、其後は折々成庵の事を申出、富森助右衛門被申候は、内蔵之助を始として、同の子供を持候者は、思出し候と噂被致候、右成庵か見に出候噂を聞傳へ、御番方并御次詰之
 衆も、追々彼の
衆を見に出被申候、いかさま後年咄しの種になり申へし

         江村節斎 名は宗悟、友精と称す。医を以て藩に仕へ、法眼に叙せらる。
              食禄七百五十石、子孫は世々医を以て仕ふ。
              享保四年七月六日歿す。年八十六。
(63)
一いつれも被申候は、舊冬より度々火事沙汰承候、此上皆様の御苦勞に相成居候間は、御近邊に火事無之樣仕度と也、我等答に、當屋敷
 廣、殊に泉水流れ、芝原も廣、樹木も茂り居候、萬一之時は、庭内に御連申筈に而、手當日申付置候と答候へは、左樣ならは、ちと御近
 火を願ひ申とて、皆々笑ひ被申候
(64)
一正月十一日、御役替有之、岩間何五郎、片山重之允、着座被仰付候、其砌私へ何れも尋被申候は、着座とは、如何樣之御座配御役儀かと
 尋被仕候、私申候は、他家にて申す番頭之類にて御座候、旦那家にても、大方は其位にて御座候、併着座と申は、先は年始の禮之節、太
 刀にて申候、着座にも段々有之候、小身にても家筋能者共は申付候、番頭より上座之着座、下座の着座と、色々御座候と挨拶仕候事
(65)
一いつれも若き衆中被申候は、堀部彌兵衛養子安兵衛、定て御聞及も可有御座候、先年高田馬場にての仕方、彌兵衛承及候而、何之由緒も
 無之候へとも養子にいたし、不思議なる事は、手跡物こし迄も、彌兵衛に能似申候と被申候故、成程承及候、感入たる儀に候と申たる事

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