津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■松平武元とか田沼意次とか

2024-11-10 08:21:56 | 徒然

先に「■謎解き・細川和泉守殿とは何方」でご紹介した松平右近将監、諱を武元といい徳川吉宗・家重・家治に仕え、家治からは「西丸下の爺」と呼ばれ信頼されたという。
来年の大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」では、この松平武元を石坂浩二が演じるというが、大変な老け役である。
やや猫背の白髪交じりのふと眉と言った感じで、かってのハンサム俳優の大チャレンジなのだが、氏も御年83歳で私よりも一つ年上だから、年相応の役なのかもしれない。
このドラマは田沼意次の時代と謳っているが、松平武元と意次は大変仲が良かったらしい。
そんな二人が活躍する政の世界と、浮世絵版元・蔦屋重三郎の活躍がどう絡まってドラマ仕立てになっているのか興味深い。
来年も欠かさず大河を見ることになりそうだ。
石坂浩二氏の松平武元の姿はこんな感じでした。右端が田沼意次の渡辺謙氏。
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■「堀内傳右衛門覺書」‐(13)

2024-11-10 06:51:19 | 堀内傳右衛門覺書

 昨日の熊本史談会に於ける、日本義士会・(熊本)山鹿支部長の宮川政士氏による「日輪寺と赤穂浪士 ~忠蔵と肥後~」というお話をお聞きした。
会員以外に多くのビジターの皆様で盛会であったが、まだまだ赤穂浪士に関する興味は尽きないように見える。
それとも、赤穂義士の接待役を勤めた「堀内傳右衛門」に対する興味であったろうか?
いずれにしても、堀内傳右衛門が書き残した「旦夕覚書」や赤穂義士に関する「堀内傳右衛門覚書」「御預人記録」などの諸記録は、赤穂事件研究の基本的史料として盤石の価値を有している。
現在私はその「堀内傳右衛門覺書」をブログでご紹介しているが、自らも楽しみながら読み返したり確認したりしながらのタイピングだから、遅々として進まない。
全部で133の話でまとめられているが、ようやく前回までで49話まで終了した。少々スピードアップして何とか討ち入りの日までには終了できないかと思っている。
そしていつかこの「堀内傳右衛門覺書」を皆様にご紹介する機会があればと思っている。
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(50)
一潮田又之丞と咄居申候處に、原宗(惣)右衛門被參、何やかや歌の咄なと有之候、又之丞被申候は、小野寺十内妻の歌、御存被成候哉と
 被申候、いや不承候と申候へは、宗(惣)右衛門殿被書付候て、傳右衛門殿へ被遣候へと被申候へは、惣右衛門被申候は、十内承候はゞ
 腹
を立か申候と、笑ひながら書付給候、

     筆の跡見るに涙のしくれ來て
         いひ返すへき言の葉もなし
(51)
一片岡源吾右衛門被申候は、先頃は皆共被召置候御屋敷の釘隠、九曜の御紋を見申候て、風と存出したる儀御座候故、故采女正(長重)
 に、三齋樣より被遣候由にて、御召料の御具足、御小手はうふ小手にて、手の甲に、釘隠の御紋の大きさにて、銀の九曜御座候、惣體采
 女正武具の物好き、三齋樣を眞似被申候由、指物なとも、三本しなへかちんにて、白餅を一本に三つ宛、九曜の心にて九ッ付させ候、私
 は武具を預居申候故、能存候と被申候、扨は左樣にて候か、御先代々御心安得御意被申候樣に承及居申候、旦那奥方本源院殿先年果て被
 申候刻、寺え爲御名代、大石頼母殿御詰被成候事覺居申候、内匠頭様御家中立物なと、其身/\の物好きにても候哉、又一列にて候哉と
 尋申候へは、侍中物頭も同前に、三寸四方の金の角を向立に仕候、當音家はと被申候故、番方の侍十二組は、一より十二迄の文字に、金
 の引兩を付、色はかちんにて候、小姓組六組は左右の文字に、金の引兩同前にて候、立物は銘々物好に仕候、組付は金にて御座候、物頭
 はおもひ/\に仕候、只今御咄の三本しなへは忠小姓にさゝせ候と返答致候處に、十郎左衛門被參候へは、源吾右衛門、十郎左衛門に
 被申候は、御自分にためし進候、具足の下地縅候時分入念候へは、火を入穴をもみ申候故、ためしかならずもとり申ものにて候間、御舎
 兄達へ能く/\御咄置候哉と被申候へは、成程兩人へ能咄置候、定て縅申時分念を入申たると被申候、扨て其後野田祖三郎に、指物の事
 を咄申候へは、成程三齋樣御代は、御番方も三本しなへと承り候と被申候、拙者小三郎咄にて■(示偏に土)承候、とかく古きことは可
 承置事に候
(52)
一老人衆へ、拙者申候は、各樣御事、國本え申聞悦申越候、私も初若輩の時は、老人は益に立ぬ者と存居申候、最早私も老人に成候故、贔
 負(屓か)に存候、旦那親父肥後守(光尚)時代、福島左衛門大夫殿城代仕居申候、上月與右衛門と申者を、五千石にて召抱候砌、肥後
 守親(祖)父三齋、八代に居被申候、家老村上河内と申者に、壹万石遣置候、河内申候は、肥後守樣は、此頃高知の者被召抱候と申候へ
 は、三齋被申候は、侍に歳か可入哉、今日召抱、今日用に立は侍也、扨々うつけたることを申候とて、以の外呵り被申候由承り候、其時
 分の老人とも歡申候て、八代へ向拜み申候と申傳候由を咄候て笑ひ申候、此咄は遠阪關内へ、志水伯耆殿咄被申候由にて候事
(53)
一右の噺を、後に内藤万右衛門母義貞柳忌中見廻に參候て噺申候、拙者十郎左衛門懇意に仕候迚、悅にて候、奥平熊太郎樣御家中、万右衛
 門弟十郎左衛門ために兄にて、神谷成右衛門と申仁勤居被申候、右の衆中存寄とて、右のためし具足の下地を形身に給候、志の段不淺、
 暫留置候、貴殿へ遣可申と、返禮に刀脇差の内、札有を遣度存居申候處風と心付候は、万右衛門も成右衛門も若き仁にて、いまた妻子も
 なき由、後々妻子も出來候上、天下に名を顕し十郎左衛門事に候へは、甥達に譲り可申候儀、當然の理と存、十郎左衛門旦那寺淸休寺に
 參候て、右の心付を噺し、十郎左衛門殿事、御新參にて年數も無之に、御代々御重恩の衆中同前に、一列の御志は、別て勝れたる樣に私
 は存候、万右衛門殿、成右衛門殿御妻子も出來御成人の後、天下に名を顕候十郎左衛門殿、御具足候へは、御持傳候儀、當然の理と存
 候、私へ形見とて被下儀、日本の神、御志不淺忝存候、拙者奉へ召置可然と思召候や、道理二ッの内を尤と被思召候哉、被仰聞候へと
 申候へは、住持被申候は、段々被入御念、御志兎角を難申候、行末の事迄、御心被附候事、感入申候と被申候故、右具足、貴僧迄返進可
 申候間、貞柳、万右衛門殿、成右衛門殿へ渡被下候へと差返候、二ッ玉にて、一枚宛ためしたる跡有之量目壹貫目餘有之候、淸休寺よ
 り、右の趣三人の衆へ被申通候て遣被申候へは、三人衆歡被申候上、感心の由留置被申候、其後貞柳より、泉岳寺へ被申通、十郎左衛門
 其夜着用の肌着を乞請、我等心底不淺存候由、是を形見に仕候へとて給候、我等にては扨て/\不淺御志にて候、子孫迄十郎左衛門殿
 に、あやからせ可申と一禮を申候、白羽二重に、後に磯貝十郎左衛門正久と、自筆にて書有之候事
(54)
一十郎左衛門書被申物を見申候へは、手跡は夫程に見え不申候、歌抔書被申候假名も、同前に見申候へとも、右之肌着之書付、眞にて書御
 座候、見事に見え申候、後に万右衛門咄被申候は、十郎左衛門若年の時分は、亂舞を好、其上器用に有之、鼓太鼓萬事稽古仕候、内匠頭
 様召出候而、御嫌にて御座候由にて、透と捨申候、御學問御好にて、色々書物好にて寫、就中しんの物は見事に見え申候、好候へば成事
 と存候と、萬右衛門咄被申候、承候而、扨は私見申候眞の見事に御座候、代筆かと存候へは、右之通に而見事に見え申候、後に万右衛門
 被申候は、肌着書付申候も、御覧候へ、かなよりも能見え申候由申候事、(本條は異本に據り補ふ)

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