津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■謎解き・細川和泉守殿とは何方

2024-11-07 15:54:46 | オークション

 共にヤフオクに出品された「細川伊豆守」に宛てた書状である。オークション出品者は同一人である。
上(1)は将軍・家治の、下(2)は老中・阿部豊後守正允の書状であり、共に歳暮に対する礼状である。両方とも、日付が十二月廿七日であることが興味深い。
細川和泉守とは、宇土細川家の、2代・有孝5代・立禮(本家相続・齊茲)6代・立之(本家相続・斎護)の三人が名乗っている。
さてそれぞれの「和泉守殿」とは何方であろうか。

  (1)古文書 檀紙 安永期 松平右近 細川和泉    
              
      爲歳暮之祝儀 / 小袖一重到来 / 歓思食候 猶 / 松平右近将監可 / 申候也
           十二月廿七日 御印(家治)   

  2)古文書 奉書紙 安永期 阿部豊後の守から細川和泉の守

           

   文字が薄くすべての判読は難しいが、歳暮に対する礼状である。 阿部豊後守の諱名は別紙に正允とあった。 

■扨て謎解き・・・
  将軍・家治 在任・宝暦10年(1760)~天明6年(1786)
  老中・松平右近将監武元
     延享4年(1747)に老中、明和元年(1764)に老中首座に就いた。家治からは「西丸下の爺」と呼ばれ信頼された。
     死去する安永8年(1779)7月25日迄現役であったという。
  老中・阿部豊後守正允
     明和6年(1769)西丸老中、安永8年(1779)本丸老中、安永9年死去

  和泉守・細川立禮
     安永元年(1772)和泉守名乗り、天明7年(1782)細川宗家相続・齊茲

 二つの書状が同年の物かどうかは判らないが、共に細川立禮が和泉守を名乗った1772年から、本家を相続(齊茲)する直前、1779年(松平右近将監死去)、1780年(阿部豊後守死去)を限りとする時代のものと考えられる。

    

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■立冬

2024-11-07 09:14:19 | ご挨拶

                                        コーヒーミルの香り一段冬の朝    津々

 立冬を迎えました。夏からいきなりといった感じで、まだ紅葉さえ見ることができないようです。
数年前の事ですが、小学校低学年の登校の子らが、「リットー・リットー」と叫んでいるのを見かけ、その年の立
冬の日を教えられたことがありました。
その年は今年と違って、立派な「秋」が存在したことでした。

昨夕、わずかに水が戻った水無川(健軍川)の堰のあたりにカワセミが飛んできていました。
こんなところでカワセミに出会うとは少々驚いたことでしたが、なにやら小魚をとらえて飛び去りました。

 今朝は、先日娘がコーヒー豆をもってきてくれたので、コーヒーミルを取り出してコーヒー曳きにチャレンジしました。
良い香りが一面に漂い、コーヒーをたててささやかな朝食をとりました。
差し込む朝のひかりはまさに冬を感じさせます。良い天気の冬のはじまりの初日です。

 

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