共にヤフオクに出品された「細川伊豆守」に宛てた書状である。オークション出品者は同一人である。
上(1)は将軍・家治の、下(2)は老中・阿部豊後守正允の書状であり、共に歳暮に対する礼状である。両方とも、日付が十二月廿七日であることが興味深い。
細川和泉守とは、宇土細川家の、2代・有孝、5代・立禮(本家相続・齊茲)、6代・立之(本家相続・斎護)の三人が名乗っている。
さてそれぞれの「和泉守殿」とは何方であろうか。
(1)古文書 檀紙 安永期 松平右近 細川和泉
爲歳暮之祝儀 / 小袖一重到来 / 歓思食候 猶 / 松平右近将監可 / 申候也
十二月廿七日 御印(家治)
文字が薄くすべての判読は難しいが、歳暮に対する礼状である。 阿部豊後守の諱名は別紙に正允とあった。
■扨て謎解き・・・
将軍・家治 在任・宝暦10年(1760)~天明6年(1786)
老中・松平右近将監武元
延享4年(1747)に老中、明和元年(1764)に老中首座に就いた。家治からは「西丸下の爺」と呼ばれ信頼された。
死去する安永8年(1779)7月25日迄現役であったという。
老中・阿部豊後守正允
明和6年(1769)西丸老中、安永8年(1779)本丸老中、安永9年死去
和泉守・細川立禮
安永元年(1772)和泉守名乗り、天明7年(1782)細川宗家相続・齊茲
二つの書状が同年の物かどうかは判らないが、共に細川立禮が和泉守を名乗った1772年から、本家を相続(齊茲)する直前、1779年(松平右近将監死去)、1780年(阿部豊後守死去)を限りとする時代のものと考えられる。