河北石見守一成ハ五郎右衛門と云、中老の比より無世と号す、其先ハ元弘乱の功将伯耆守長年の弟従五位下河北対馬守高則十一代の孫也、世々丹波国氷上郡河北ニ住して家号とせし由、一成生得強弓精兵にして勇力人に勝れしか、永禄の比領地を争ひ隣郷の城主と河を隔、矢軍に及ひける時、敵将進ミ出、石見殿矢坪をさし給へ、一矢仕らんと呼掛候ゆへ、爰を射給へと胸を敲(タタ)きひかへ候に、敵の発ツ矢石見か目の上骨の高ミに立ツ、其儘抜候得とも根残りてぬけ不申候、され共是を事ともせす、さらは返報仕らんと申けれハ、敵兼ての弓勢をや怖けん、傍なる大榎木の陰に隠れ候を鏑にて先榎木を射、二の矢をはけ敵出るや否や忽当の敵を射倒し、其儘絶入候を鑓持走り寄、殿尿をまひれと喚はり、石見か口を開時掌に小便を受、口に入れけれハ、頓て正気付候を鎗持肩ニかけて帰り候也、此矢の根色々いたし候得とも不抜、終に左の目は盲申候、其上根の忠なかくさし出難儀なる故、五分はかり残しすり切らせ候、其後も少し何にてもさはれハ、おひへ候様に殊之外いたミ候間、何とそして抜へき仕法あるへきと思ひ、先墓原ニ行て髑髏の目の上の上骨のつかひをよく吟味し、又其比はやりの矢の根の形をとくと考へ、件の鑓持を呼出し、余の者に抜せ候ても思ふ様に有ましき間其方ニ申付る也、頭を柱に結付少も甘かぬ様にして釘抜にて根をはさミ、少し右へねぢて抜けと申付候間、畏候とて其通にいたし、無二無三に抜けれハ疵口より白きのり出申候、矢の根立て三年に及ひ候得とも少も錆ハ見へさりしとなり、偖(サテ)跡は薬を用無程平癒いたし候、又持病に積気有てやゝもすれハ夥敷脳(悩)ミ候間、二ツ取の療治をいたすへきとて、腹の塊を脇へ動かぬ様にしかと押へさせ、馬焼鉄を真赤にやき直に当候得ハ、五歩はかりかたまりに焼入、積塊砕け血に成て下り、其後二度持積おこらす、如斯強気なる生質也、此外色々武功多く候得とも略之、右の事は中にも潔き事故、河北の家に伝来の通記し申候、其後明智氏に属して新恩千石を領し、御玉様御輿入の時附来り、直ニ御家来ニ成候也
私云、河喜多家記ニ明智氏丹波入国以後是に属しと有之候得とも、丹波国全く治り候事ハ天正八年也、御婚礼ハ天正六年」にて、其比ハ丹波敵徒
退治合戦の最中にて紛敷聞候間、入国以後と云事は省き申候
嫡子河北五右衛門ハ直に明智氏に仕へ、子孫ハ無之由、二男藤平一生ハ明智家没落後御家に来り、別録三百石被下、此時ハ康之・立行と共ニ豊後木付に有、後千石を領し、忠興君の命によつて河喜多と文字をかへ石見と改申候
考ニ一書、豊前にて竜王の御城代と有、又飯河豊前を竜王の城代として飯河豊前・河北石見守之とも有、いふかし、慶長七年ニ詳ニ出
一生ハ飯河豊前御討果之時相果、嫡子平十郎・二男五郎右衛門ニ五百石宛秘下候 子細有略之 平十郎ハ名跡相続の男子なく家断絶、五郎右衛門正直ハ有馬陳之節御奉行役にて御留守居相勤候処、御帰陳後三百石加増、嫡子瀬兵衛も別録被下、外ニ男子五人有之候ニ、承応二年弐百石宛被下候、二男助三郎後助兵衛、三男四郎三郎後治左衛門・四男吉兵衛・五男勝太郎後勘右衛門・六男大九郎後角左衛門也、五郎右衛門正直万治二年十月病死、嫡子瀬兵衛別録弐百石ハ被召上、親遺領八百石被下候、其子五郎右衛門始名五郎八正氏も無相違被下置候処、乱心にて跡断絶いたし候、正直二男助兵衛正方、其子浅右衛門始名石松又権内正舎、其子作左衛門始名幾之助正盛、其子孫左衛門方正始名槌三郎正門、其子五郎右衛門始虎之助中比作左衛門正敦、其子今の浅右衛門伯(ノリ)尚也、嫡家断絶ゆへ去ル元禄十三年秀林院様百年御忌に嫡家の筋目御尋有之、作左衛門正盛御焼香被仰付、正直三男治左衛門正則ハ子孫無之、四男吉兵衛は御知行可被下趣内々承候迄ニ而病死、勿論子孫無之、五男勘右衛門正勝元禄六年公義より類族御改之時正直三男と相違候由、三男・四男早世によりて也、正勝子権兵衛正治、其子勘右衛門正次、其子勘右衛門正設始名十蔵正直、其子藤平正能、其子当代一大夫正辰也、六男角左衛門直友、其子角左衛門始名丹次直是、其子角左衛門始名佐次郎正次、此代に禄減して百五十石に成、其子当代角左衛門正安無相違相続、又無世か三男加兵衛始名甚吉は関ヶ原後忠隆君御供仕、暫く京都に罷在、慶長八年に豊前に下り御知行弐百石被下候、其子九大夫友吉初名五郎助正重百五拾石にて候処、有馬にての功によりて五百石被増下都合六百五拾石、友吉子三左衛門始名清十郎後九大夫友有、其子九大夫始名幸之助中比治郎右衛門友昌、其子五郎大夫一有始名源蔵友武、其子三左衛門一衛始名五郎助又治部左衛門一房、其子九大夫始名幸之助一雄、其子今の三左衛門一経なり、又石見一生か三男河喜多平七、於豊前弐百石被下候得とも早世にて子孫無之、同四男源之進始名平七中比久四郎正季百五拾石、其子源之進始名角大夫正秋、其子角大夫始名儀三郎又専右衛門正真、其子専右衛門始名左内正森、其子太蔵季親、其養子今の万之允一諦也、又作左衛門正盛か二男次郎平正章、其子万之允ハ太蔵季親養子に成、次郎平跡ハ絶申候、当時河喜多在勤之家五人有之、浅右衛門・一大夫・角左衛門・三左衛門・万之允皆無世か子孫也
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
参考略系図 (制作・責 津々堂)
+--河北五左衛門
| 明智家中小笠原甚左衛門誅伐仕手・討死
|
| +--平十郎
| | 父・石見死亡時勘気、後五百石、病死跡断絶
| |
| | +--某 御暇
ガラシャ夫人殉死 | 妙見龍王城預 | |
河北石見---+---藤平(石見)---+--五郎左衛門---+--助兵衛 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→(列蔵家)
| 飯河豊前誅伐仕手・討死 |
| | +--次左衛門 病死
| | |
| | +--吉兵衛 病死
| | |
| | +--勘左衛門 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→(助三郎家)
| | |
| | +--角左衛門 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→(一二家)
| +--某
| |
| +--源之進・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→(和学家)
| (父)石見相果候砌出生仕候
+--甚吉(嘉兵衛)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→(治部左衛門家)
細川休無忠隆家臣(誕生時より慶長八年迄)その後豊前にて召出
細川ガラシャ夫人に繋がっていたと言っているのですが
今分かったのは母方の先祖が河北宗磧という
医者で鍼灸の古典を編纂していた様子
https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00002286
その兄は河北弥源太という人で
その両親の名前を調べています。