(55)
一松平安藝守(浅野綱長)樣御家中は、江戸にて馬を持不申候も道中は専牽せ申候、江戸にては借馬も有之由、道中専に牽せ候由、上田新
兵衛咄にて候、先年道中にて我等も見申候、馬數大分に候、前々より馬宿の咄承候、本多中務樣御家中は、貮萬石以上は馬は牽かせ候、
是も先年道中で見申候、右の通候へは、内匠頭樣も安藝樣と同前と存候、數日の儀にて、何も心安坊主共に、色々の事を尋被申候由候へ
は、我等身の上の事も、定て尋たるにて可有之候、馬牽せ候宿の時も何となく、右之咄を得候、心底には扨々おかしく痛入候、何角に付
小身は口惜候
(56) 吉田
一次の間にて咄居候處に、上の間より忠左衛門參、傳右衛門殿は、毎々若き者斗と御咄被成候、御年もさのみ皆共と替りも無御座候と被申
候故、神以追付夫へ可參と存候へ共、御咄しみ候て居候と申候へは、忠左衛門被申候は、いや左樣にても無御座候、惣體是へ參候事、内
蔵之助心に叶不申候と存候得共、傳右衛門殿御聲仕候と、内蔵之助其外へも申候て、是へ參候、必此座がらに御はなし可被下候、此間に
參候て御噺承候へは、氣晴快御座候と被申候、是にて内蔵之助威高き事、可有御察候事
(57) 吉田 原 堀部
一上の間罷出候時、忠左衛門、惣右衛門、彌兵衛なと、我等側へ被參、傳右衛門殿は馬御数奇と、何れも咄にて承候、馬咄可仕候、總體道
中御牽せ候馬、遠路達者不達者に可有御座候と被申候、いかにも若き時より數奇て見候に兎角馬は生質すなほに、すそ廻りよく無御座候
へは、遠路道中なと役に立不申候、頭持能、轡うけ能、喉も前地道乘能のと申候ても、小うて延び申候か、或はそむき爪悪敷候か、とか
く馬は惣體能候ても、右の所々に申分候へは、遠路必血落、自然の時益に立不申候と返答仕候、御番人後に詰居被申候故、われらも心の
内おかしく、いたみ入候、若輩の時分、御馬屋に稽古に出其後定て御供にて、舎人殿就中馬好きにて、切々右之咄承居候故、取合候而返
答いたし候、とかく何事も心を付て、人の咄は可承置事に候、武士はいか様の事かありて、大名に可成事もしれぬ事に候、昔より申傳
候、心は身體より大きに持度事候、扨右之三人衆被申候は、扨々傳右衛門殿は、承及たるよりは馬御巧者にて候、定て御家の御馬役衆、
其外御侍中にも御乘手多可有御座候、前廉の上田吉之允なとの樣成上手は、當世有兼可申候と、忠左衛門被申候、如仰昔之樣に勝れて乘
候は有兼申候、馬役之者に中山九郎左衛門と申者候て、随分奇麗成る乘方にて御座候故、越中守唯今の旦那の祖父妙解院と申候、三齋子
にて御座候、如形馬好にて、自分にも能乘被申候、馬上にて色々の事を被仕候て、慰被申候、腹中すき候時分、馬上にて湯漬なと給被申
候由、親共咄承候、其時分は右吉之允におとらぬ上手共多く、馬役之者に永井安太夫と申ものは、皆共幼年之頃まて存命にて覺居申候、
小男にて奇麗成乘方にて御座候、吉之允は馬上手にて、武功も有之候、一所に佐分利九之允と申仁御座候由、此佐分利同名之者共、傍輩
に多御座候、兩人共に松平宮内大輔樣へ被召仕、九之丞は後に原城にて討死仕、石塔なと今に有之候よし、傍輩共は見申候との咄承候、
吉之允兒小姓佐治頼母と申仁は、右吉之允、九之允働有之刻も、同前の働にて、富田信濃守殿當座之褒美に、作の鞍を給り被申候由、後
に松平新太郎樣え被召出、千石被下、鐵炮頭被仰付候段、親共噺にて承り申候と申候へは、三人共に傳右衛門殿は、古き事を能く御覺被
成候と被申候、近代大坂軍島原一揆之刻、御父子共に被成御座、御家中侍中討死手負、或は御褒美之書附、折々見可申候、生れぬ先の事
も知申候、御當家之事を、御家人の不知して、他家の人尋申時、不存と申と、不心懸之事候、遠坂關内、此以前相良遠江守樣へ御振廻之
時、御供に被參、其刻我等は歩御使番にて、腰懸に居申候、御知行取は御座敷に上り、御料理被下候節、關内え彼方御家老被申候は、前
廉御家に居被申候而、御暇申上候早水忠兵衛と申人、松平大和守樣へ被召出、結構なる首尾にて御座候、御家にては百石被遣、御臺所頭
被仕居候由、島原之刻、長岡佐渡殿、益田彌一右衛門殿、右御兩人之證據状持被居候て、右之通結構に被召出候由、右之通之仁を、何と
て御暇被遣候哉と尋被申候へは、關内方返答に、成程被仰聞通に承及候、其節越中守、肥後守父子共に罷越候故、侍共過半召連候、其時
忠兵衛は、輕き奉公をいたし、臺所廻りに役儀を勤申候者にて、働いたし候、他所へ參候ては、身體の足りにも成可申と、兩人より状を
遣候儀も承及居申候、前々より召仕候侍とも、働多御座候故、越中守方にて、さのみ賞翫不仕候、大和守樣へなとにては、島原之働有之
者少可有之候間、御賞翫御尤に候と返答いたし候へは、御家老とかくの事もなく、御尤と被申候由、則我等腰懸に居申候處、關内被參、
何と存候哉、偽にもなく誠を以能返答にては無之哉と被申候、今に忘不申候、扨々能被申候樣、先祖越後守殿之名を汚さぬ樣にと、申さ
れたるを覺居申候、關内は古き咄好にて能覺候、關内島原の時分は、未生以前か、三四歳か、夫より上にては有間敷候、皆々好たる訳
は、わけもなき事さへ覺申事に候、貴殿心得にも成可申と、書加へ候事
(58)
一忠左衛門、我等側に寄咄被申候は、拙者聟伊藤十郎太夫と申者、本多中務大輔樣御内に居申候、折節在江戸にて候、本多家譜代之者に御
座候、親は八郎左衛門と申て、武功も有之候へとも、申度事斗申候故、小身にて今に二百石被下居申候、内記樣代或時御前へ被召出、御
夜咄之節、酒も出段々御機嫌能、後には出頭仕候、兒小姓衆罷出、八郎左衛門に酒給せ候へとも、下戸にて常々短氣者故、頻にのませ可
申とて、兒小姓衆戯候て、色々の事を申て、腹を立させ候へは、散々悪口を申候故、幼少之者共と申、殊に御前にて迚、御機嫌損し候由
承及候、今に小身にて子孫も居申候、心儘に申度事斗申候へは、今に小身にて居申事と被申候、我等申候は、左樣の儀は多き事に候、苦
にも不被存、定て一つ所を樂に存可被居候と、返答致候、又被申候は、右十郎大夫殿へ、折を以御知人に成可申と被申候、本多樣御屋敷
は、御成橋之内にて、參り候て逢申候、存生之内にて、いか樣遠慮被仰付候哉、長髪にて些煩居申と被申候、緩々と咄、忠左衛門殿御無
事に御座候と申候へは、扨々忝、神以御禮難申盡と被申候、忰兩人疱瘡輕く相仕廻、湯も懸り申候、其外忠左衛門忰共も、無事に居申
候、私妻子にも無事に居、寺坂吉右衛門無事に下り、私所にも參候段申越候と、御咄被下候へと被申候故、歸り候て忠左衛門に咄候へ
は、扨々不淺御志難申盡とて歡被申候、吉右衛門事申出候へは、此者は不届者にて、重而は名も被仰被下間敷と被申候、吉右衛門は、其
夜一列に一同に參候て、逐電いたし候由、兼々何れも被申候、然とも無恙仕廻申たる儀を知せ候使申付なと色々申候へ共、右之通に被申
候事、不審に存候、實の缼落かとも存候事
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