(66) 細川藩士 家康公
一次之間にて(富森)助右衛門被申候は、吉弘嘉左衛門殿先祖之儀、承度と被申候故、我等申候は、大友家にて吉弘嘉兵衛と申者、秀吉公
之時、九州合戰之砌討死仕候、石垣原の戰と申候、豊後詞にて子共迄も小歌に、長い刀をシャツと抜て切てさるけばエレ/\皆はいまは
ると、諷申候と申傳候、就嘉左衛門と心安共は、ムゝエレ/\と申て、なふり申候と申候へは、助右衛門被申候は、アレに居申候、矢田
五郎右衛門も、嘉左衛門殿御先祖にまけ申ましく候、矢田作十郎と申候者は、隠れもなきものにて候と被申候、後に承り候へは、大村因
幡守樣御出被成、太守様え御咄被成候は、御預り内、矢田五郎右衛門先祖作十郎は、三河にて三人之内にて、二人之子孫は、只今御旗本
に御鐵砲頭被仰付置候、名は失念仕候、其内にても、作十郎は勝れたる武功之者と御咄被成候由承候、堀部彌兵衛事も御咄にて、今時之
聞番之樣成るものにては無御座旨、被仰候由之事
(67)
一内蔵之助を初、何れも被申候は、度々御斷申候は如御存、私共久々浪人にて、輕き物迄を給暮し申候故、結構成御料理數日頂戴仕、殊之
外つかへ申候、此間の麁飯戀しく成申候、何とそ御料理輕く被仰付被下候樣にと被申候、我等申候は、左樣に可有御座候、私共も逗留中
御相伴に、次にて料理給少つかへ申候樣に覺申候、乍去菜數之儀は、旦那耳に達候て之儀故、減申事は難成と申候へは、左候はゞ、唯今
御座候ちさ汁、なまこ鱠糟味噌汁なとゝ、心安衆は望被申候故、色々申候へとも、御料理人共、唯うまき樣に計仕、存候樣に成兼、残念
に存候事
(68)
一助右衛門被申候は、いろ/\御馳走、誠以冥加に叶たる儀に御座候、水風呂も一人宛御かへさせ被成候事別て迷惑仕候、大勢入候跡程和
かに能御座候旨被申候故、後は二三人にて替候様に申付候、毎度下帯なと被下候へとも、度々には替不被申候事
(69) ほつんヵ
一上之間若き衆、大勢咄被申候處に、罷出候へは、何れも被申候は、御覧被成候へ、間喜兵衛いつとても咄不申、人の後に計つほんといた
し居候が、如形律儀に堅き男にて御座候と被申候故、我等申候は、勝れて御實儀と承候へは、今後顯れ候と申候へは、夫はいか樣の思召
にて、被仰候哉と被申候故、今度各様上野介殿をこそ、御心に可被懸候へとも、十次郎殿御鑓付被成候て、印を御あけ候事、喜兵衛殿御
手に被懸候より、十次郎殿御手柄を、何程かと大慶に可被思召、冥加に御叶候事、常々喜兵衛殿之御貞心故と申候へは、何れも誠に左樣
にと被申候、何れも喜兵衛の方を見向被申候へは、歡ばしき顔色にて、笑ひて我等に向、何共物は不被申候、忝と計之樣子にて、折入て
時宜を被仕候、夫故か終に咄もなく、しかと言をかはしたる事無之候、最期之時、側に寄候而、何そ御口上之御方可承と申候ヘは、懐中
より辭世を書たるを給候き
草枕むすふ假寝の夢さめて
常世に歸る春のあけほの
(70)
一御老中秋元但馬守樣御内に、中堂又助と申仁、(間)喜兵衛聟に御座候由に付、傳を以此辭世を又助内儀へ見せ、所望には可被思召候へ
とも、是は拙者に給被申候故、所望は斷申とて遣見せ候へは、又助より卽刻禮状給候事
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