昭和49年(1974)10月に発刊された森田誠一編「肥後細川藩の研究」を読んでいる。
第二編第二章に森田先生の論考「近世の郷士制、特に金納郷士の性格」という項が立てられている。
その中に、金納郷士ではないが、文政四年正月に出された「今度新地御入目出銀者左之通」という文章が紹介されている。
一、銭二百貫目
地面百石被下置、御奉行所觸被仰付、乗馬飼料、門松、増奉公人被渡下、旧古之家柄に縁組勝手次第
(以下、同百貫目、同七十貫目があるが省略する)
この解説として、「銭を貫目にしての二百貫というと、当時大阪相場で大体、金一両は銀六十匁前後であるから、金にして三千三百三十余両ということになり、・・・」とある。
以上の事は、「古町むかし話・熊本御城下の町人」(岡崎鴻吉氏著・昭和27年刊行)にも紹介されている。
さて、この3,330余両の計算の根拠を考えてみよう。
上記文章に於いては「新地御入目出銀者」と書かれているから、森田先生は「一、銭二百貫目」とあるにもかかわらず、銀二百貫」で計算されていることが判る。
200貫=200、000匁であるからこれを銀60匁/両から、3,330余両と算出されている。
文政の頃の両がいくらするのかよく承知しないが、例えば5万円/両とすれば16,666万円となる。
1億6666万円を出すことのできる商人が存在したのだろうか?その結果には「古町むかし話」も触れていない。
どうもこの話は、100石収穫できる土地を拝領する(武家に於いての100石知行取)という事らしいが、実収入は知行と同様40%にも満たないものである。
1石=1両=5万円だとすると、年間200万円ほどの収入に成るから、1億6666万円を取り戻すには83年かかることになる。
それよりも「御奉行所觸被仰付、乗馬飼料、門松、増奉公人被渡下、旧古之家柄に縁組勝手次第」という特典が魅力的なのかもしれない。