かって■「候」は句点・・・?を書いた。谷崎潤一郎が言った言葉だそうだが、現実はそうではない。
古文書には多くの例外が見える。
上記谷崎の言葉が紹介されている、山本夏彦の「完本 文語文」は私が大好きな著書で、私が死ぬまで座右に置く大切な蔵書である。
改めてページを開いてみたら、今迄気が付かなかった「候」にかんする記述に遭遇した。
その文章は以下の如くである。
森銑三翁といえばその小品「朝顔」に数え年十四になる少女が、歌の師匠に初めてほめられ「めでたく候」と書いてもらった。喜びに耐えず帰って母に示し、ともども喜んだのに日ならずしてふとした病で少女ははかなくなくなったという。
候という字にはこういう使い方もあったのである。
ここに指摘された「めでたく候」という言葉が包含する意味合いをこの十四歳の少女は十分に理解したのである。
「おめでとう、よく頑張ったね、あなた自身の努力のおかげだよ」という意味合いが愛情豊かにこの五文字に表されている。
こういう話に遭遇すると、81爺は目頭が緩んでくる。講談社学芸文庫「新編 物いう小箱」に収められている。
Amazonから注文を入れたのは当然である。
引越に際し書籍類は荷解きをしてとにもかくにも本棚に押し込んだ。
さて落ち着いて本を探す段になると、どこに入れたのやら判らずに大事することになる。
以前の様にある程度系統立てて並べ替えようと思うが、これも81爺にとっては一仕事となる。
まずは文庫本だけをまとめて並べることから初めて、どうやら形が付いた。
そんな中に随分古い勝海舟の「氷川清話」が顔を出した。昭和47年の第5判である。
パラパラめくっていると折り目を立てた跡がある頁が出て来た。「末路に処する工夫」とある。
そして記事の中にある「楽天理」という言葉に朱線をひいているのを見付け、瞬時に記憶がよみがえった。
徳川幕府最後の将軍慶喜が明治30年静岡での謹慎生活を切り上げ東京へ出て来る。
「朝敵」の負い目を負ったままの慶喜が、天皇に初めて拝謁したのは明治31年3月2日のことである。
徳川慶喜の母は有栖川宮織仁親王の12女という関係から、有栖川宮威仁親王がその実現にむけ尽力され、勝海舟にも相談があったようで「内々奔走した」とある。
天皇には大変ご鄭重な待遇に預かり、皇后からはいろいろな拝領物を下賜された。
翌日慶喜は海舟を訪ねて来たという。海舟は「品位をお保ちになって、昔の小大名などとはあまりご交際なさるな、(中略)自ら品位を落とすもとである。馬車などには乗らず、一人引きの車でどこへでもおいでなさい。時々はご徒歩でもって市中の様子でもご覧になるがよろしい」と申し上げた。
天皇拝謁は果たしたものの「朝敵」の負い目を抱えていたのだろう慶喜に対し、海舟は「品位を保つこと」を盛んに言っている。
慶喜は「天恩の優渥なるを記し奉って、祖宗の祭りを絶たないようにする」とし、海舟に対し、布に「楽天理」と揮毫を依頼し海舟も涙を流してこれに応えたという。
「楽天理」とは、天の理に身を託して余生を静かに生きて行こうという意であろう。
天皇拝謁という一つの節目を迎えた慶喜の感慨が伺える。
明治13年には罪を許され、大政奉還の功によって将軍時代の正二位に復位、続いて従一位に叙されたが、爵位は与えられなかった。
明治35年、慶喜は宗家を離れて別家を興し公爵を授爵された。一橋家の家臣であった渋沢栄一などの尽力があった。
ちなみに海舟は嫡子・小鹿が早世すると伯爵家の後継ぎとして、慶喜に頼み込み末子・精を養嗣子に迎えている。
森村誠一氏が亡くなられた。ご冥福をお祈り申し上げる。
そこで本棚に唯一残っている森村作品の珠玉「人間の証明」を読もうと思い至った。
なんべんも読んだ光文社のカッパノベルの「人間の証明」だが、初版は昭和52年(1977)の3月5日私が所持しているのは第45刷でその年の9月26日である。
僅か半年で45刷とは大ヒットの跡が伺えるが、770万部と言うものすごい記録だそうだし、ジョー中山の出演映画も大ヒットしたし彼の主題歌も耳に残っている。
氏は確か前職はホテルマンだったと記憶する。
この小説の書き出しはホテルのエレベーター内での刺殺遺体をエレベーターガールが発見した事からはじまるが、いかにもホテル関係者であったことが伺える綿密な描写が連なる。
20世紀の23年間と21世紀の23年間、世紀をまたいだ今でも心に残る名作だが、映画も改めてみてみたいものだ。
森村誠一氏の細身の端正な顔立ちが思い出される。
今日も暑い一日になりそう。はたして今日一日で読めるかどうか、冷房の下でページをめくっていこう。
現在松本健一著の「明治天皇と言う人」を読んでいるが、明治という時代を理解するのには恰好の著作である。
本の表紙には顎髭が白くなった軍服姿の天皇の横顔の写真が使われているが、私が知る明治天皇のお顔とはいささか違うように思える。ふと他人ではないかとさえ思った。
しかし、別の処で見たことがあるとおもい本棚をきょろきょろしているうちに、森田誠吾氏著「明治人ものがたり」が目についた。
この本は三本建ての内容で、「睦仁天皇の恋」、森銑三を取り上げた「学歴のない学歴」、森鴎外の娘と幸田露伴の娘を取り上げた「マリとあや」である。
それぞれ大変興味深く読んだし、「本の終活」の埒外に在る。
この「睦仁天皇の恋」のなかに、上記写真とよく似た写真が掲載されていた。よく似たと記したのはその写真には「睦仁」と明治天皇のサインが施されている。
上の写真の様に前を見るという感じではなく、ややうつむき加減で猫背状態である。
しかし、同じ時期同じ場所で撮影されたものだという事は間違いない。
森田氏の文章を読むと、「昭和も戦後のことである。美術史家の丹尾安典は、ある日の古書市で、色あせた一枚の肖像写真に目をひかれた。」とある。
台紙には「国民新聞社謹製」とあり、明治天皇崩御の前年の大演習の際のスナップだという。
安尾はいささかお疲れ気味の御真影に「天皇も人間である」ことを強く感じ「お肩でもお揉みしましょうかという気に成った」と紹介している。
最期の記事に出て来る「マリとあや」のマリ(森鴎外娘・茉莉)は祖母に手を引かれてこの観兵式(大演習とはしてない)を見に行き、なるべく近くにと思い歩き回った後に、親切な兵隊さんが一番前列に導いてくれた上「そこに居られるのが陛下です」と教えてくれたそうだが、一間位離れたところに「猫背の軍人がいた。それが明治天皇だった」としている。
神格化された「天皇」もこうした観察をとおしてまさに「人間」であることを知るのだが、これはまさに明治新政権の大きな罪であると思う。
ついでながら、森田誠吾氏のこの著は是非お読みいただきたいと、推薦申上げる。
不順な天気が続く中、ここ一週間ばかりひたすら読書に親しんでいるが、いわゆる「読書連鎖」というやつにはまり込んでしまった。
専ら「幕末・維新史」の復習と言った感じである。それも現在私が所蔵する書籍に限られるから、なかなか疑問が解消しない。
「新肥後学講座・明治の熊本」「熊本歴史叢書・細川藩の終焉と明治の熊本」からスタートし、何となく本棚に目をやって佐高信著の「西郷隆盛伝説」を取り出した。拾い読みで完読には至っていない。それから、石光真人編著の「ある明治人の記録‐会津人柴五郎の遺書」をよみ、会津の人たちに対する官軍の容赦ない非道な行いに息をのんだ。
森田健司著の「明治維新という幻想ー暴虐の限りを尽くした新政府の実像」から、松本健一著の「明治天皇と言う人」を読む。これも完読には至っていないが大変面白い。
西郷が最も目の敵にした一橋慶喜と会津・桑名両藩と考明天皇に触れた「孝明天皇と一会桑」、その他市川三郎の「明治維新の哲学」等々である。
今まであまり興味がなかった「維新史」に触れてこのような「読書連鎖」にはまり込んだが、梅雨が明けたら上記の著書の中に在る引用論考や掲載書籍など図書館に出向いて、連鎖を継続させようと思っている。
インターネットで調べると、維新史に関する書籍の何と多い事か。81爺様の新たなチャレンジである。
一月ほど前、某書店に平積みされている本の中の、妖艶女性の微笑の表紙についつい惑わされてこの「脳の闇」を購入してバッグに入れたまま引っ越し準備ですっかり忘れていた。
時折TVなどでもお見掛けする脳学者・中野信子氏の著作だが大変な美女でいらっしゃる。天は二物を与えた。
「帯」には「人間の厄介さを知っていますか」とあるが、その答えは80過ぎの爺様でも美人をみるとフラッとしてしまうという事だ。
バックを開いて気が付いて、パラパラを目次を拝見、今晩から読み始めようと思う。
引っ越し荷物の本や資料が棚に収まらなくて、また本の処分を考えなければならない。資料も再度目を通して必要なものはスキャンして、処分しようと思っている。
じっくり読書する余裕はまだまだ先のことになりそうだが・・・・
家系研究協議会様から会誌「家系研究・第75号」と「会報・第84号」をお贈りいただいた。深く感謝の意を表したい。
会員で細川藩士Y氏のご子孫S様のお力添えでお送りいただくようになってから数年が経過する。
いつものことながら、東京さ列皆様の熱い想いの程を感じている。
つまり小説の内容を一々歴史的事実に照らし合わせて、回答するという能力は2021年が現在の知識を得たとしても無理なのではなかろうか。ただ、見事な日本語の文章で当たり障りのない内容ながら、瞬時にこれだけの回答が寄せられるのには、やはり感嘆しかない。
私の知識は2021年までのものですので、森鴎外の小説「興津弥五右衛門の遺書」についての具体的な情報は持っていません。また、実際の歴史的事実と小説の相違についても確認することができません。
ただし、一般的に小説や映画などのフィクション作品は、歴史的な事実とは必ずしも一致しない場合があります。作家や映画監督は、物語の展開やドラマチックな要素を追加するために、歴史的な事実を創作や改変することがあります。
したがって、森鴎外の小説「興津弥五右衛門の遺書」と歴史的事実の相違については、小説自体や歴史的な資料を調査する必要があります。専門の文学研究者や歴史研究者による解説や批評を参考にすることで、小説と実際の歴史の違いについて理解を深めることができるでしょう。
「加藤清正妻子の研究」「続・同左」「加藤清正と忠廣ー肥後加藤家改易の研究」など一連の肥後加藤家研究の第一人者の福田正秀氏から頭書の「放送大学日本史学論叢」をご恵贈給わった。
深く感謝を申し上げる。この冊子の中に氏の論考「徳川家康養女清浄院の母方系譜ー清浄院書状を解析するー」が、30ページに亘り掲載されている。
今迄の業績に加え「妻子の研究」は更なる進展をしている。つまり清浄院の生母(目加田氏)の存在が明らかにされ、清浄院の実父・水野忠重(家康生母・於大=伝通院の兄)との関係が明らかになってきた。
氏は「清浄院の人間関係や人柄、功績に新たな知見を開く」論考と言って居られるが、まさしくこれまでの氏の研究の成果としてこのような貴重な資料がもたらされて、氏の許に蓄積された多くの資料と共に更なる校合研究がなされて新たな世界が開かれてきた。
氏とはずいぶん長いご厚誼をいただいているが、今般またこの論考掲載誌をご恵贈給わり、論考をいち早く拝見できたことに感謝を申し上げる。
また機会を得てご講演を拝聴できる機会が訪れるのではないかと期待している。
東京大学史料編纂所(財務・研究支援チーム)様から、頭書の書籍を御恵贈給わった。誠に有難く、伏して御礼を申し上げる。
地方の、それも一介の市井の歴史好きにすぎない老人にとっては、これに過ぎる名誉はない。
今回の内容は、細川光尚公の公儀御案文(6月15日~9月26日)の533件の書簡が掲載されている。楽しみに拝見させていただく。
すでに、ご恵贈給わった同資料は「24巻」以降これで5冊目となり望外の喜びで、只々感謝申し上げる次第である。
俳句は国境を越えて One-Poem One-World
- 240頁
- 978-4-86329-260-4
- 定価 2100円 (+税)
- 2022年11月30日発行
俳句は、いまや〈世界文学〉と言ってよい。著者は国際俳句交流協会会員で、俳句と〈英語ハイク〉の双方を詠み、比較研究してきた英語学の専門家でもある。俳句が、世界の国々との文化交流・対話の〈橋渡し〉となり、共感と共生のヒューマニズムを呼び起こすことを願ってまとめられた本書の意義は大きい。夏目漱石が熊本時代に詠んだ俳句を厳選して句題ごとに分類、さらに英語詩(3行詩)へ訳した試みは画期的である。また、世界各地の愛好家が詠んだ〈英語ハイク〉を独自の観点で紹介した章は、俳句の世界を一気に広げてくれる。
司馬遼太郎の著「春灯雑記」では、「護貞氏の話-肥後細川家のことども」という86頁にわたる、長大な項が立てられている。
1991年が第1冊なのだが、司馬氏は20年前の事だとしておられるから、1960~70年代の事だと思われるが、熊本で細川護貞さまと会われ、貴重な時間を過ごされ結果としてこの項が誕生している。
その時期に思い到る事があるが、多分新聞社の主催による講演会の開催であったろう。
私は出かけていないが、なぜか新聞の切り抜きが残っていた(現在は紛失)。
話は多岐に亘っている。然し内容のそれぞれが護貞さまの事、肥後細川家の事を鋭い洞察力で表現されており、寸分の違和感を感じさせない。
「護貞氏は躯幹まことに長大である。温容ではあるが、容貌の特徴は、刃でするどく切れを入れたような一皮の上瞼にあるといっていい。」と護貞さまを紹介する。
まさに膨大な愛読者を有する作家の表現力に「まさにその通り」と申しあげたい。
この本(ハードカバー)は数冊購入して、読んでほしいと人様に差し上げたことがあるほどの、私の愛読書でありいつも目の前の棚に鎮座している。
いまでは安野光雅氏装丁のこの様な文庫本になっている。お安いですからお買い求めいただきお読みください。
宮本武蔵に係わる小説は結構ある。主役ではなく準主役みたいな形で扱われているのが、森鴎外の「都甲太兵衛」や、山本周五郎の
「よじょう」等がある。
いずれも細川家に係わる人物を主人公としているから興味をそそられているが、こんな感じの小説は他にもあるのだろう。
前者については結構御存知ではない方も多い。都甲太兵衛は実在の人物で、あるときどちらの大学の方か判らないが、お墓の所在と
「ご子孫をごぞんじないか」と尋ねてこられたことがある。
花園の市営墓地に母方の祖母の父・猿木宗那のお墓があるが、そのすぐ近所に都甲太兵衛のお墓はあった。(今はない)
ご子孫のお宅は存じ上げない。そこで私は電話帳を調べて同姓の方のお宅に電話をかけてご子孫を探す作戦に出た。
運よく二件目でご当人に電話が通じていろいろお話が出来た。子供さんが居られないという事で、「我が家は当代で絶家です」と仰って、
返す言葉がなかったことを思い出す。刀その他は、島崎の「島田美術館」に寄贈されたとお聞きしたた。
小説については、「青空文庫」でも紹介されていないから、「津々堂・電子図書館」でご紹介している。
後者の「よじょう」は中国の故事に因んだものだ。こちらの主人公は架空の人物で、事件そのものも周五郎の創作であろう。
「ある調理人が武蔵の腕を試そうと出刃を以て襲ったが、切り捨てられた。息子の某は仇を討とうと、武蔵が通る道筋に粗末な小屋を
たてて時を伺う。これを知った人々が援助の手を差し伸べ銭の寄進を受ける。武蔵もそれを知り、家の前で時折立ち止まったりした。
しかし事は成就することなく武蔵は死去する。武蔵は帷子を残したという。
援助を受けたものを元手にかれは旅籠を始める。武蔵の残した帷子に無念の刃で切りつけ、これが旅籠の名物となったという。」
大方そんな筋書きであったように思うが、終活が過ぎてこの作品が掲載されている本を処分してしまった。
心に残る作品である。
NHKのEテレで「信長に仕えたアフリカン侍・弥助」の再放送を観た。ロックリー・トーマス氏の上記著作がベースとなって話が勧められていく。
この本は2017年2月7日第1版が出版されたが、私はしばらくしてから大いなる興味を以て購入した。
NHKの放送内容によると、この著作は黒人社会で大いなる反響を呼び称賛され、キム・バースというアメリカ人監督が弥助を主人公とした映画を100億円の大金をかけて映画化するという話があった。
奴隷としてイエスズ会の宣教師・アレッサンド・バリヤーノにつれられ、インドのゴアの聖パウロ学院で教育を受け、その後日本へやってきた2mを超える大男で屈強な体力を持った男は、バリヤーノの九州布教の後、信長に布教の許しを得るために京へ上る。
この黒人の存在は人の口を経て信長の知る所となり、バリヤーノは信長に謁見することになった。
好奇心旺盛な信長はバリヤーノに乞い、この黒人を家来とする。黒人侍「弥助」の誕生である。
どうやら小姓らしき待遇を受け信長はあちこちと連れまわしている。しかし、本能寺の変が起り信長は死去し弥助の運命も急変する。明智の軍勢に捕らえられた弥助は、光秀の命により南蛮寺に届けられたという。
いろんな古文書が駆使され其の後の足取りがうっすらとあぶり出される。それによると弥助は九州の有馬氏の許に在ったらしい。また加藤清正の書簡から、妻子もあったとされる。
奇しき彼の人生は黒人だからという当時の日本の差別感情がなかったとしている。そうすると幸せな異国での生活であったかもしれない。
そんな特異の人物だが、その後の事は陽として知れない。その後の切支丹排除の動きが増すと日本を離れたのかもしれない。
映画製作の進捗はどうなっているのか、著者・ロックリー・トーマス氏のその後の研究の成果も知りたいところである。
家系研究協議会様から会報「家系研究・第74号」をご恵贈いただいた。厚くお礼申し上げる。
何時もながらの会員諸兄の真摯なご研究の成果に対し敬意を表するとともに、会のますますのご発展をお祈り申し上げる。
最期の「表紙家紋について」では「丸に帆掛け舟紋」が紹介されており、主なる使用家に天草五人衆・大矢野家をご紹介いただいている。感謝。