津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

中村甚左衛門の先祖

2005-01-23 15:46:50 | 歴史
 中村甚左衛門という人は、細川幽齋が田辺城に籠城したとき、密命をうけて城を出禁裏への使いを果たしている。「中村甚左衛門田辺城籠城御使者一件」に詳しい。甚左衛門の息の時代に忠興の命により、沢村大学一族と親類同様の交わりをするようにとの思し召し受け、また沢村姓を名乗るようにとの命があった。綿考輯録なども伝える処である。沢村家の先祖附は、この中村甚左衛門を初代としている。

 ぴえーるさんがダイアリーに、「中村一氏の息は忠一か一忠か」と書き込みをされているのに気がついて、本棚から一冊の本を取り出して眺めてみた。熊本藩士で数代にわたり金春流の能楽の師範を務めた中村家は、中村一氏の二男の流れを汲んでいる。幕末の庄左衛門は郡奉行などを勤めた人だが、26年という長きにわたり日記を認めていた。「肥後・中村恕齋日録」として全十二巻のうち一巻のみだが、復刻されている。肥後藩における幕末期の息づかいを間じかに感じることが出来る、貴重な史料である。この本の中に中村家一族の系図が掲載されていた。

一氏の息・忠一(一忠)は米子十八万石の城主であったが、わずか22歳で亡くなり無嗣絶家している。初名が忠一、後に一忠と名乗ったのだろうか。二男正吉が熊本中村家の祖だが日向高城で討ち死にしている。そして系図はその弟として、正重(甚左衛門・田辺籠城、後沢村姓となる)という名前を記していた。

 沢村氏とは当方サイトを通じてご厚誼をいただいている。早速メールでお知らせしたところだが、まったく偶然のことで驚き入ってしまった。沢村家の系図は甚左衛門から、父・駿府城主中村式部少輔一氏、兄・米子城主中村忠一、そして熊本中村家へと大きな広がりをみせてつながった。また一氏の弟の孫に当たるのが、あの歌舞伎の初代中村勘三郎である。

ぴえーるさんのダイアリーを覗いての偶然の出来事、これだから止められない。
コメント
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