忠興の生母光寿院は沼田光兼の女、俗名麝香である。夫・藤孝と苦楽を共に過してきたが、慶長十五年藤孝が逝去(77)する。翌十六年(1611)光寿院は証人として江戸へ登ることと成る。綿考輯録は、忠興の母を気遣う手紙(忠利宛)を紹介している。
慶長十九年(1614)十月
「母にて候人湯治之儀ゆめゝゝあるへからす候、たとひはや湯へ御入候
とも、此ふミもたせ遣、急上り候やうニ被申へく候事」
光寿院が風呂に入ることを止めるべく指示している。煩っていたのだろうか。
元和四年(1618)閏三月
眼病を煩った忠興は、その治療に四苦八苦しているが、
「母にて候人へハ、はや目本復にて頓而下候由申入候間、可被得其意候事」
と便りしている。
そして、三ヵ月後「御煩被成候」て、七月廿六日卒去するのである。七十五歳。
最晩年の七年間を、証人として江戸で一人暮らしたことになる。
忠利への便りの中にさりげなく書かれているものだが、老いた母へのいたわりの気持ちが満ち溢れている。
証人といえば、慶長五年(1600)、十五歳の忠利が初めて細川家証人として江戸へ下っている。慶長十年(1605)には忠興の命により、興秋が忠利に代り、証人として出発するが途中出奔、この後興秋は不幸な道へ歩みを進めることになる。長岡(三渕)平左衛門重政が代わった。そして慶長十六年(1611)光寿院が江戸へ下り、長岡重政は豊前へ帰ることと成る。ちなみに重政は、藤孝の甥(弟好重の嫡子)である。
元和五年(1619)正月、忠利の弟天千代(元和三年正月生まれ)が証人として江戸へ下り、その後二十二年の長きにわたり江戸で暮らすことに成る。刑部少輔興孝、島原の乱への参陣の願いも入れられず、忠興とも不仲であったと伝えられる。
慶長十九年(1614)十月
「母にて候人湯治之儀ゆめゝゝあるへからす候、たとひはや湯へ御入候
とも、此ふミもたせ遣、急上り候やうニ被申へく候事」
光寿院が風呂に入ることを止めるべく指示している。煩っていたのだろうか。
元和四年(1618)閏三月
眼病を煩った忠興は、その治療に四苦八苦しているが、
「母にて候人へハ、はや目本復にて頓而下候由申入候間、可被得其意候事」
と便りしている。
そして、三ヵ月後「御煩被成候」て、七月廿六日卒去するのである。七十五歳。
最晩年の七年間を、証人として江戸で一人暮らしたことになる。
忠利への便りの中にさりげなく書かれているものだが、老いた母へのいたわりの気持ちが満ち溢れている。
証人といえば、慶長五年(1600)、十五歳の忠利が初めて細川家証人として江戸へ下っている。慶長十年(1605)には忠興の命により、興秋が忠利に代り、証人として出発するが途中出奔、この後興秋は不幸な道へ歩みを進めることになる。長岡(三渕)平左衛門重政が代わった。そして慶長十六年(1611)光寿院が江戸へ下り、長岡重政は豊前へ帰ることと成る。ちなみに重政は、藤孝の甥(弟好重の嫡子)である。
元和五年(1619)正月、忠利の弟天千代(元和三年正月生まれ)が証人として江戸へ下り、その後二十二年の長きにわたり江戸で暮らすことに成る。刑部少輔興孝、島原の乱への参陣の願いも入れられず、忠興とも不仲であったと伝えられる。