細川興秋は、元和元年六月六日山城国稲荷の東光院で切腹している。西軍に味方したが、その死は忠興の命によるとされている。介錯に当たったのが入江右近である。関が原の戦では、忠興の下で「首一つ」の手柄を挙げている。「初五郎作 後松井右近と改、但馬国主前野但馬守高麗陳之時取来られしもの也、御息出雲守禿童にして御つかひ候しが、秀次公叛逆御一味の由にて前野氏中村式部少輔ニ御預之時出雲守殿より異国者ニ而候可愛からせ給へと忠興君へ被仰進候者也」と綿考輯録は紹介している。その後行方知れずとか、病気でなくなったとかされるが、案外興秋と共に天草辺りへ逃げ延びたのかもしれない。
興秋の胤という、天草の長岡氏のご子孫の消息など知りたいものだ。
興秋の胤という、天草の長岡氏のご子孫の消息など知りたいものだ。